三国志に登場する文官:賈詡(かく)について解説していきます!

数々の主君に仕えながら、その知謀で重用され続けたのがこの賈詡です。

最終的に魏の功臣となった賈詡がどのような生涯を送ったのか、通しで知っている方はあまり多くないのではないでしょうか。

そこで今回は賈詡の生涯について、その功績はエピソードを交えながらご紹介していきたいと思います。

賈詡の生涯を最後の死因まで解説!

生涯にわたり数多くの主君に仕えたのが、今回ご紹介する賈詡です。

特に張繍と曹操に仕えた際のエピソードが色濃く残っているのが印象的な文官ですね。

軍師としての活躍は素晴らしく、まさにそばに置いておきたい人材であったことは間違いないことでしょう。

そんな賈詡がどんな人生を送ってきたのか、早速見ていくことにしましょう。

生まれ~移り行く主君

賈詡は147年に涼州武威郡姑臧県で生まれたことが記録として残っています。

都から遠く、異民族との交流もある地で育った賈詡は、その知謀から孝廉に推挙され、役人として勤めるようになりました。

しかし、すぐさま病のため職を辞め、帰郷することになった賈詡に異民族が接近し捕えられてしまったのです。

この時、賈詡は異民族が恐れる豪族の親族であると嘘をつき、逆に異民族を脅迫して自らを解放させたのでした。

 

やがて、同じ涼州出身の董卓が洛陽に入ると、賈詡も召し出され董卓の娘婿である牛輔の配下に付けられます。

しかし、董卓が呂布に暗殺され、牛輔も巻き添えを喰らうと、同じく牛輔の配下だった李傕たちに策を与え、長安を李傕たちのものにしたのでした。

賈詡は混乱する都を治めようと尽力しましたが、李傕たち悪政を敷き略奪を繰り返した挙句、ついには仲間割れを始めたことで見切りをつけたのです。

そして、献帝が李傕の下から脱出したことを契機に、自らを配下に誘ってくれた張繍の下に移ったのでした。

張繍配下での活躍~曹操に降伏

当時、荊州を治め相当な勢力を誇っていた劉表と同盟を結ぶべく、賈詡は張繍との仲立ち人として活躍しました。

荊州の玄関とも言える宛城を本拠とした張繍でしたが、その地を狙っていた曹操に攻められ、197年に降伏してしまいます。

しかし、曹操が張繍の族父であり、すでに亡くなっている張済の妻:鄒氏に入れ込んだことに怒った張繍は、賈詡に反乱のための策を尋ねました。

賈詡は曹操を油断させて夜襲することを提案し見事に的中、曹操の息子である曹昂・曹安民と、親衛隊長の典韋を討ち取らせる戦果を挙げたのです。

 

曹操からの反撃を受けた後、膠着状態となっていた張繍と曹操の関係でしたが、袁紹と曹操が戦い始めた際に転機が訪れます。

互いに戦況を有利にすべく、袁紹と曹操の両方が張繍を自陣に引き入れようと使者を送ってきたのでした。

張繍は勢力の大きい袁紹につこうかと悩みましたが、賈詡は曹操につくことを進言したのです。

仇の関係を超えた要請をしてきた曹操の方に未来がある、という賈詡の言葉通り、曹操は張繍を厚遇し、賈詡自身も曹操の参謀として使えることになったのでした。

名軍師としての出世~最後

官渡の戦いで賈詡は、袁紹軍から投稿してきた許攸の言葉を真実だと進言し、最終的に袁家一族を滅ぼす結果を導きました。

赤壁の戦いの後は、馬超の反乱を鎮圧するための曹操の軍隊に従軍し、離間の計を持ってこれを破っています。

また、跡継ぎ問題に悩んでいた曹操に対し、同じく跡継ぎ問題で心配した選択を取った袁紹や劉表を引き合いに出した進言を行い、曹操の信頼をより大きなものとしました。

この時、曹操が選んだ跡継ぎである曹丕からも、より重用されることになったのは言うまでもありません。

 

220年、曹丕が魏王の座に就くと、賈詡は三公の1つである太尉に任命されました。

しかし、この時賈詡はすでに老齢で、当時魏の臣下の立場を形式的にとっていた孫権はこの人事を不適当だとあざ笑ったそうです。

この孫権の言葉が当たったのか、3年後の223年、賈詡は77歳という年齢で病に伏し、そのまま亡くなりました。

賈詡の立てた功は他のものに見劣りしないものでしたが、張繍に仕え曹操と敵対していた際に、曹操の子や典韋を失わせる策を立てた張本人という立場もあってか、魏の功臣として祀られることはなかったのです。

賈詡の功績や最強と言われたエピソード

ここまで賈詡の生涯についてご紹介してきました。

的確な進言で乱世を生き抜いた、世渡り上手な軍師であると言えますね。

そんな賈詡の主な功績や、最強の軍師と言えるエピソードについて、ここからご紹介していきたいと思います。

離間の計で窮地を救った功績

賈詡が曹操配下として活躍した一番の見せ場と言えば、勢いずく馬超・韓遂連合軍と戦った潼関の戦いで披露した離間の計でしょう。

韓遂が曹操と旧知であったことを利用し、敵対しているにも関わらず韓遂と曹操を引き合わせるところから、馬超と仲違いする策を始めました。

あえて下書きの手紙を作り、韓遂に送ったことで馬超を疑心暗鬼に陥らせ、強固だった韓遂との絆を弱体化させることに成功したのです。

一歩間違えれば曹操も亡くなっていたかもしれない戦いを逆転させた賈詡の働きは、まさに大きな功績と言ってよいでしょう。

最強の軍師と言われるエピソード

このような策を披露した賈詡ですが、三国志に登場する人物の中でも最強の軍師という見方もできるのではないでしょうか。

生涯において賈詡が献策した策に失策が無く、自らの身の振り方も時節に柔軟な動きを見せたのは、やはり並外れた知謀を持っていたからに他なりません。

三国志の歴史を編纂した陳寿も、賈詡のことを前漢の名軍師である張良や陳平に次ぐ優れた人物だと評価しています。

まさに、最強の名にふさわしい軍師であると言えるでしょう。

まとめ:失策無き世渡り上手な軍師だった

今回は三国志に登場する文官:賈詡についてご紹介してきました。

赤壁の戦いにもし賈詡が従軍していたら、その後の歴史は変わっていたかもしれないと思える程の知謀の持ち主でしたね。

まさに世渡り上手で、失策を見せない名軍師だったと言えるでしょう。