三国志に登場する武将:夏侯覇について解説していきます!

魏の名将:夏侯淵の息子の中でも一番武芸に秀でていたと言われる武将ですね。

途中から蜀に亡命し、魏と戦う道を選んだことでも有名な武将として知られています。

そこで今回は夏侯覇の生涯について、なぜ蜀に亡命したのかという考察も含めてご紹介していきたいと思います。

夏侯覇の生涯を最後の死因まで解説!

夏侯淵の息子の中でも特に優れた4人の子の筆頭として挙げられたのが、今回ご紹介する夏侯覇です。

父譲りの武芸を幼い頃から才能として見せ、魏のために最後まで戦うものだと周囲は思っていました。

しかし、途中で父の仇でもある蜀に亡命するという行動を見せ、その生涯を終えたことは三国志終盤の話の中でも有名です。

一体夏侯覇はどんな生涯を送ったのか、早速見ていくことにしましょう。

生まれ~将軍として出世

夏侯覇の生まれた年ははっきりとしていませんが、180年代前半ではないかと記録より推定されています。

父親の夏侯淵と同じ豫州沛国譙県が故郷であり、おそらく曹操の旗揚げの頃にはまだ幼少だったことが考えられますね。

夏侯覇の兄弟は非常に数が多く、兄が1人、弟が5人という人数だったそうです。

特に、弟である夏侯威・夏侯恵・夏侯和の3人と並べ得られ、夏侯淵の子の中でも特に優秀な4人として知られていました。

 

勇猛さがウリだった夏侯淵の血を特に引いていたと思われる夏侯覇は、兄弟の中でも一番武芸に秀で、幼少期からその才能を発揮していたそうです。

その夏侯淵が219年に定軍山の戦いで蜀の武将:黄忠に打ち取られたことを聞くと、夏侯覇は蜀への復讐心に燃えるようになったというのが記録として残されていました。

時が流れ、夏侯覇が偏将軍に任命された後、230年には蜀の北伐に対抗する曹真の軍の先鋒として出陣しています。

この時は蜀軍に包囲されてしまい、援軍の手によって救出されるという、あまり思わしくない戦果となりました。

司馬懿のクーデター~蜀への亡命

上記の戦いの後、徐々に出世し対蜀軍の将軍として活躍していった夏侯覇でしたが、そんな彼に暗雲が立ち込めます。

それが司馬懿のクーデターでした。

当時権勢をふるっていた曹爽が司馬懿によって誅殺されると、曹家とその親族の粛清が行われ始めたのです。

その中で、曹爽の従弟である夏侯玄が司馬懿の手にかかり亡くなるという事態が起こりました。

 

夏侯玄は夏侯覇にとってとても近い存在であり、親族でもある夏侯玄が殺されたことが夏侯覇にとても大きな衝撃を与えたのは言うまでもありません。

さらに、かねてから仲の悪かった郭淮が夏侯覇に代わって対蜀の将軍に任命されたことも重なり、夏侯覇に次は我が身、という危機意識が芽生えたのです。

もちろん、夏侯覇に落ち度はなかったのですが、不安を拭えない夏侯覇は魏から脱走し、蜀に亡命したのでした。

人材不足が嘆かれていた蜀に迎えられた夏侯覇は、敵方として戦った際の有能ぶりを高く評価され、車騎将軍に任命されたそうです。

魏との戦い~最後

姜維とともに魏への北伐に向かった夏侯覇は、255年の戦いで魏の将軍:王経の軍に大打撃を与える活躍を見せました。

しかし、蜀の政治家である陳祗が258年に亡くなったことで北伐を一時中断せざるを得なくなってしまいます。

夏侯覇の活躍はこれ以降描かれず、260年に諡が贈られたという記述があることから、その間に亡くなったということが明らかとなりました。

また、259年には夏侯覇が就いていた車騎将軍の座が空席になっていたことから、夏侯覇は258年か259年に亡くなったという説が有力視されています。

 

なお、三国志演義では異なる最後として描かれた武将でもありました。

蜀に亡命後、幾度となく北伐に臨んだ夏侯覇は、姜維とコンビを組んで魏軍を苦しめる立場として頭角を現していったのです。

しかし、8度目の北伐時に魏軍が仕掛けた空城の計を見破れず、そのまま戦死したと描かれていました。

夏侯覇の登場も司馬懿が対北伐への推挙まで描かれていなかったことから、正史より地味なキャラクターとして扱われていたのです。

夏侯覇の性格やなぜ蜀に亡命したのかという理由

ここまで夏侯覇の生涯について解説してきました。

魏の政変によって立場を追われた夏侯覇でしたが、なぜ父の仇として憎んでいた蜀に亡命したのでしょうか。

ここからは夏侯覇の亡命の理由や性格についてご紹介していきたいと思います。

夏侯覇が蜀に亡命した理由

夏侯覇が蜀に亡命した経緯は上述しましたが、なぜよりによって呉ではなく父の仇と憎んだ蜀に亡命したのでしょうか。

その理由の1つに、蜀の皇帝である劉禅の皇后が夏侯覇の縁戚であったことが挙げられます。

慢性的な人材不足であることに加え、皇帝の親族となればたとえ亡命してもすぐに命を奪うようなことはされず、逆に歴史の通り重用される可能性の方が期待できたからでしょう。

また、長年蜀と戦ってきたことで、ある程度蜀の事情にも通じており、逆に魏と戦う時に自身の持つ情報が有利に働くことも考えたのではないかと思われます。

実は心配性な性格だった?

一方、いきなり亡命してしまう行動からも読み取れるように、夏侯覇の性格は心配性だったのではないかという説があります。

本来ならば咎められることは何一つない夏侯覇にとって、司馬懿のクーデターは思うところこそあれ、うまく立ち回れば自身の立場を危うくすることはなかったはずです。

しかし、心配性だったがゆえに先行きの暗さを想像してしまった夏侯覇は、思い切った行動をとったのでしょう。

この行動は蜀に亡命した直後も見られ、早く味方に信じてもらえるよう、蜀の名将:張嶷に近づき、その行動を諫められた逸話も残っているほどでした。

まとめ:心配性がゆえに蜀に亡命した武将だった

今回は三国志に登場する武将:夏侯覇について解説してきました。

おそらく心配性だったがゆえに、父の仇として憎んだことも忘れ、蜀に亡命したのではないかと考えられます。

魏に残って活躍する道も残されていたはずですが、これが運命の分かれ道だったということですね。