曹丕の生涯を最後の死因まで解説!功績や司馬懿とのエピソードについても

三国志

三国志に登場する魏の初代皇帝:曹丕について解説していきます!

曹操の息子であり、長く続いた漢の歴史に終止符を打った人物が、この曹丕です。

一代で大国を築いた曹操の跡を継いだ曹丕は一体どんな生涯を送ったのでしょうか。

そこで今回は曹丕の生涯について、生前に挙げた功績やエピソードを交えながらご紹介していきたいと思います。

曹丕の生涯を最後の死因まで解説!

当時の中華の中で一番勢力の大きかった魏の初代皇帝として君臨したのが、今回ご紹介する曹丕です。

三国志の国の中でも一番最初に皇帝を名乗ったことでも有名ですね。

早逝した皇帝であることも記録として残っていますが、一体どのような人生だったのでしょうか。

早速見ていくことにしましょう。

生まれ~聡明な幼少期

曹丕は187年に曹操と卞氏(後の卞太后)との間の長男として生まれました。

もともと曹操には劉氏を母とし、正室である丁氏が育てた曹昂などがいましたが、宛城の戦いで亡くなったことがきっかけで卞氏が正室となり、そこから曹丕が跡継ぎ候補として認識されるようになったのです。

有能な曹操の息子とあって、幼少期からすでに聡明で、8歳の頃には同年齢の子ども以上の文章力を持っていたそうですよ。

また武芸にも長けており、わずか11歳にして曹操が率いる軍の一員として活動していたことも記録として残っています。

 

なお、曹昂が亡くなった宛城の戦いに曹丕も従軍していたのですが、この時は無事に脱出に成功し、難を逃れていました。

命の危険もあったという状況下で、曹丕は冷静に状況を判断し、戦うことをせず逃げることに専念したそうです。

後に張繍が曹操の下についた時、頼みごとをしにきた張繍を曹丕は「兄の仇」として罵倒しました。

張繍はこの件で先行きが不安になり自決したそうですが、それほどまでに曹丕にとっても曹昂の存在は大きかったようです。

曹操の下での成長~魏皇帝就任

曹操の下で順調に出世していった曹丕は、曹操が都を開ける際には副丞相として留守を預かることが多くなりました。

216年頃から曹操が正式に跡継ぎを考え始めた際、同じ卞氏を母に持つ実弟:曹植と曹丕のどちらを指名するか悩んでいたそうです。

曹丕と曹植は自らが跡継ぎになることを望み、後継者争いを激しく繰り広げていました。

結果として、賈詡が同じく後継者争いで禍根を残した袁紹や劉表を引き合いに出したことで、曹操は長男である曹丕を正式に太子として指名したのです。

 

220年に曹操が亡くなると、曹丕はそれまで曹操がかたくなに拒んでいた献帝への禅譲を迫るようになりました。

この行動も、家臣からの献策で自ら禅譲を望むのではなく、家臣から献帝に献上するよう迫り、献帝がそのように働きかけると曹丕は2回これを辞退したそうです。

自らが皇帝の座を奪うという形に見せないような工作を行った結果、3回目の献帝からの依頼に応じ、ここに長きにわたる漢の歴史が幕を閉じることになりました。

魏皇帝となった曹丕は自らを文帝と名乗り、国内の制度を整えていったのです。

皇帝就任後~最後

皇帝となった曹丕は、執拗に呉への攻撃を画策し、臣下の反対意見も押し切って度々出陣しました。

最初に行動を起こした222年の戦では、初戦を優位に進めるも、その後は各部隊が呉軍に大敗したため、約1年後に撤退を余儀なくされています。

224年には再び呉への侵攻を行い、自ら10万の兵を率いて出陣するという行動を見せました。

しかし、これも呉の徐盛の策で作られた偽の城塞に驚いたため、結局戦わずして退却しています。

 

曹丕は翌225年に、またしても10万の兵を率いて呉に攻め込もうと画策しました。

しかし、この戦も寒波が押し寄せたことで自らが乗る龍船が出せないことがきっかけで出陣を断念します。

さらに、この機に乗じた呉軍に逆に攻められ、大敗を喫するという失態を犯してしまいました。

天下統一のための野心を消そうとしない曹丕でしたが、226年に病に倒れ、わずか40歳という年齢で崩御してしまったのです。

曹丕の功績や司馬懿とのエピソード

ここまで曹丕の生涯についてご紹介してきました。

一番大きな功績と言えば、やはり魏の皇帝となったことが挙げられますが、他にどのようなことを行ってきたのでしょうか。

ここからはそんな曹丕の功績やエピソードを詳しく見ていきたいと思います。

政治面の評価は悪く、文化面の功績が大きかった

魏の初代皇帝となった曹丕ですが、実は政治面での評価はとても悪かったとされています。

権力を手に入れたことで、それまで後継者争いをしていた弟を都から遠ざけたり、過去に自分に逆らった人物に理由をつけて処分したりと、やりたい放題だったそうです。

王権重視の施策をとったことも曹丕の政治の特徴で、漢の腐敗の原因となった宦官の出世を法律で頭打ちにし、王や皇族の力を強固なものとしました。

さらに、陳羣の提案を採用した九品官人法は制定当初はうまく機能していましたが、後に制度を悪用され、生まれが豪族でないと高い位につくことができないように変化してしまったことで、結局これが魏を衰退させる原因となったのです。

 

一方、文化面での功績については政治面とは反対に評価されています。

もともと文章力があり、文学に造詣の深かった曹丕は、「典論」という文学書を作成し、自身の文学論を残しました。

その中には、文学をもって国を発展させるという曹丕の考えが記されており、当時の考え方として画期的なものだったようです。

以上のことから、文化面での功績が評価されているがために、政治面での失策が色濃く出てしまったと言えますね。

司馬懿との仲が生んだ後世のエピソード

かねてから曹丕は司馬懿と懇意にしており、自身が亡くなった際にも後を託した家臣たちの1人として指名されています。

司馬懿は曹丕が若いころから礼を欠くことなく接し、曹丕もまた司馬懿の才能に警戒する曹操から庇うこともあったそうです。

一方、司馬懿の真の狙いは国を乗っ取ることであり、そのために曹丕と仲良くし、自らの発言力を強めていったとされています。

曹丕の施策である九品官人法はそれまでの悪しき習慣を打ち破ったものとして評価されましたが、後年になるとそれを逆手に取った司馬懿にうまく利用され、その子孫が建国した晋も結果としてすぐに腐敗する結果となったのでした。

まとめ:初代魏皇帝は政治面の功績に乏しかった

今回は魏の初代皇帝になった曹丕について解説してきました。

文化人であった一方、政策面ではその後の政局に悪い影響を残した人物でもありましたね。

今回は触れませんでしたが、実は曹丕の性格にも様々なエピソードがあり、そのことが影響した結果であるとも言えます。

曹丕の性格についてはこちらの記事で詳しく解説していますので、気になる方はぜひチェックしてみてください!

曹丕の性格についての記事はこちら!


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