三国志に登場する文官:程昱(ていいく)について解説していきます!

早くから曹操に仕えた軍師の中でも、年配でありながら他の文官に負けない活躍を見せたのが、この程昱です。

三国志演義における袁紹との戦いで描かれた策謀はとても有名ですね。

そこで今回は程昱の生涯について、その名前の由来やエピソードを交えながらご紹介していきたいと思います。

程昱の生涯を最後の死因まで解説!

曹操配下の軍師の名前で挙がらないことはないほど有名なのが、今回ご紹介する程昱です。

袁紹との戦いや、その後のエピソードは三国志演義で脚色され、曹操を支える軍師というイメージが非常に強い人物ですね。

功績が切り取られ紹介されることが多い人物でもありますが、その生涯がどのようなものなのかについて知っている方は少ないと思います。

果たして程昱がどんな生涯を送ってきたのか、早速見ていくことにしましょう。

生まれ~曹操配下に

程昱は141年に兗州東郡東阿県で生まれたことが記録として残っています。

とても大柄な人物で、その身長は約191cmと、当時の中国人の平均身長を大きく上回るものだったようです。

なお、この頃は自らを程立(ていりつ)と名乗っており、後に程昱に改名することになります。

184年、程昱が43歳の頃に起こった黄巾の乱の最中、地元である東阿の地でも混乱が起こっていました。

 

地元の豪族に協力を要請した程昱は、程昱の言うことを聞かない民衆をも計略をもって従わせ、混乱の収拾を図ることに成功します。

この功績によって程昱は有名となり、当時兗州刺史であった劉岱から配下になるよう勧められました。

その後も重ねて配下になるよう誘われた程昱でしたが、すべて断ったのです。

やがて、劉岱が亡くなり曹操が兗州を支配するようになると、程昱は曹操の呼びかけに応じ、その配下に加わったのでした。

兗州防衛~袁紹との戦い

曹操が徐州へ攻め込んだ時に起こった陳宮の反逆とそれに乗じた呂布軍の攻勢に対し、守りを任されていた荀彧は程昱に周辺地域の安定を任せました。

呂布の攻勢に次々と曹操側からの寝返りを見せる地域が出てくるなか、程昱の故郷である東阿は曹操に従い続け、程昱も任務の遂行ができたのです。

無事に任務をこなした程昱の働きを聞いた曹操は、程昱を軍師として認め、まだ程立と名乗っていた名前から程昱に改名するよう言いました。

この時より、程昱と名乗るようになったのです。

 

その後も程昱は献策を続け、献帝を迎え入れるよう進言したり、劉備の裏切りを予言したりと、その才を発揮していきました。

袁紹との戦いが始まると、寡兵で城を守っていた程昱のところに袁紹の大軍が近づくという窮地が訪れます。

しかし、程昱は援軍を断り、袁紹軍は程昱には何もせず素通りしていったのです。

援軍が来れば攻撃を受けてしまう、という程昱の読みが当たったことで窮地を逃れた程昱は、袁紹の没後にも袁譚・袁尚を倒す手助けをすることができました。

赤壁の戦い後~最後

袁紹を倒した後に南下を目論んだ曹操でしたが、赤壁の戦いに敗れ、その夢は生涯叶うことはありませんでした。

その後、馬超の反乱の鎮圧に向かった曹操から、息子の曹丕とともに留守を預かった程昱は、その間に起こった反乱の際に降伏した賊の処遇について、全員処刑するという皆の意見とは反対の言葉を投げかけたのです。

曹丕が程昱の言葉の真意を聞き、曹操に意見を求めると、曹操も同じく処刑しないことを考えていました。

曹丕との間をも取り持った程昱の働きに、帰還した曹操は宴会を開きましたが、程昱はこれを機にと軍師からの引退を表明したのです。

 

それまでの功績が大きかった程昱は、皇宮警察長官である衛尉に任命されましたが、もともと強情で意見を変えなかった性格が災いし、憲兵隊指令とのいざこざが契機となり免職されてしまいます。

その後、曹丕が帝位につくと、再び程昱は中央に召し出され、衛尉に復職しました。

曹丕からの信頼も厚く、さらに上の地位も望めるかと周囲からささやかれましたが、すでに80歳という年齢であった程昱には難しい話だったのです。

220年、病に伏して亡くなった程昱は、その後も魏の功臣として夏侯惇・曹仁と並び祀られたのでした。

程昱の名前の由来となった夢や手紙のエピソード

ここまで程昱の生涯について解説してきました。

曹操を主君と見定め、高い地位にまで就くことができたのは素晴らしいですね。

ここからは程昱がなぜ程立から名前を変えたのか、その由来やエピソードについてご紹介していきたいと思います。

名前の由来は夢から来ていた

程昱が程立から改名したのは曹操の勧めがあったことは上記しましたが、「昱」の字を使った理由はきちんとしたものがありました。

かねてから、程昱は中国でも有名な泰山という山の頂上で、両手で太陽を掲げる夢を見ていたそうです。

その話を聞いた曹操が面白がり、縁起が良いと程昱に話したことで、立の字の上に日を書いて「昱」という字を作ったのでした。

かくして、程昱は自らの能力が優れていたこともありますが、魏の功臣として出世することができたのです。

三国志演義で有名な手紙のエピソード

もう1つ、程昱の話で有名なのは、三国志演義で描かれた手紙のエピソードです。

徐庶を劉備の下から引き抜こうと曹操に提案した程昱は、徐庶の母に近づき、親しくなろうとしました。

程昱に下心があることを見透かした徐庶の母でしたが、程昱が行ったもてなしに対する礼儀を欠くことはできず、お礼の手紙を送ったのです。

その文字を真似て程昱が書いた偽の手紙が、徐庶を欺き、劉備の下から引き抜く決め手となったのでした。

 

三国志演義での程昱はこのように曹操の懐刀として、軍師の役割を果たしていたのです。

一番有名なのは、袁紹との戦いの中でも特に程昱が活躍したと言われている倉亭の戦いでの描かれ方ですね。

兵を10に分け、すべて伏兵として配置し袁紹軍を叩いた十面埋伏の計によって、袁紹に心労を負わせ、亡くなる原因を作ったとされています。

この他にも、赤壁の戦いで敗走した曹操の前に現れた関羽に対し、曹操自らが命乞いをすることで義心を呼び出し、曹操の命を救うという献策を行ったのも程昱でした。

まとめ:老獪な軍師は魏の功臣として全うした

今回は三国志に登場する文官:程昱について解説してきました。

とても長命だった中で、その人生の後半を魏のために尽くしたことで、功臣として祀られるまでになった文官でしたね。

名前のエピソードも面白く、印象に残る人物としてこれからも語られていくことでしょう。