三国志に登場する武将:張郃(ちょうこう)について解説していきます!

魏の五大将軍に選ばれた武将の中でも、特に敵対視していた蜀の軍勢から恐れられていた武将が、この張郃です。

晩年はあの諸葛亮ですら警戒する名将として多くの活躍を残していたことでも知られていますね。

そこで今回は張郃の生涯について、最強と言われた強さに関するエピソードも交えながらご紹介していきたいと思います。

張郃の生涯を最期の死因まで解説!

三国志の中でも蜀との戦いで特に登場した武将の1人が、今回ご紹介する張郃です。

生涯で主君を数回変え、一番所属が長かった魏の曹操の下で大功を挙げた人物でもありますね。

長生きした武将というイメージもありますが、その生涯は一体どのようなものだったのでしょうか。

早速張郃の生涯について見ていくことにしましょう。

韓馥から袁紹配下に~高覧とともに投降

張郃の生年は不明ですが、冀州河間郡鄚県の出身であることが文献にて明らかになっています。

彼の武将としての活躍は黄巾の乱に対する討伐軍の募兵時から始まっていたとされ、亡くなるまでの期間を逆算するとかなり長生きした武将であると言えますね。

この募兵時に最初の主君である韓馥に仕えるようになった張郃でしたが、韓馥が同盟を組んでいた袁紹とともに新たな帝を擁立しようとして失敗したあたりから、韓馥が利用され始めていることに気が付きました。

先の見えない韓馥に仕えることの危険性を察知した張郃は袁紹に帰順し、その後張郃の予想通り韓馥は没落し、その勢力は袁紹が吸収したのです。

 

公孫瓚との戦いで戦功を挙げ、袁紹軍の中でも評価が上がっていった張郃でしたが、曹操との決戦を袁紹が選んだことに反対する立場をとったことで雲行きが怪しくなります。

元韓馥家臣である田豊や沮授とともに、後に起こる官渡の戦いに反対しましたが、袁紹はこれを聞き入れず、大規模な戦が始まったのです。

張郃の危惧したとおり、兵糧庫を強襲された袁紹軍は混乱し、さらには味方軍師であるはずの郭図が自らの失態を隠すべく「張郃が敗北に喜んでいる」との虚言を流すというピンチに。

袁紹軍の中でも居場所が無くなってしまうと悟った張郃は、同僚の高覧とともに曹操軍に降伏し、その勇名と行動を高く評価した曹操から偏将軍に任命されたのです。

魏の五大将軍になるまで

曹操配下となった張郃は袁紹亡き後、その勢力を滅ぼす戦に従軍し戦果を挙げると、208年の南方攻略戦の時には魏の中でも名将と言われるほど活躍していました。

赤壁の戦い後、馬超・韓遂が反乱を起こした際にも曹操に従軍し、潼関の戦いで戦った後にその配下である楊秋や梁興を討伐したのです。

この頃から張郃は夏侯淵の配下となり、西方の異民族の反乱を抑え、その地盤を安定させていきました。

215年の張魯討伐戦を制した曹操は、侵攻が予想される劉備軍への備えとして漢中に夏侯淵の軍を配備、張郃も同じく守将として駐屯することになったのです。

 

曹操の予想通り劉備軍が侵攻してきた際、張郃はあらかじめ攻略していた地に住む住民を漢中に避難させました。

戦は破れてしまいましたが、この行動を高く評価された張郃は盪寇将軍に任命されたのです。

その後、219年に起こった定軍山の戦いで自身を救うべく援軍を差し向けたことで夏侯淵が討ち取られてしまうと、現場は大混乱となりました。

このことに責任を感じた張郃は、郭淮の進言もあって自ら代理の指揮官となり、軍を統率し何とか立て直したのです。

諸葛亮との激戦~最期

定軍山の戦い以降、張郃は曹真とともに主に西方の守備に就くことが多くなりました。

228年に諸葛亮が北伐を開始すると、諸葛亮の命令を無視して山頂に布陣した馬謖を打ち破り、蜀軍に恐怖を植え付けたのです。

また、陳倉の戦いの際には都に呼び戻された直後、張郃は大急ぎで援軍に向かい、結果として蜀軍の撤退に一役買う働きを見せました。

この功によって、張郃は征西車騎将軍に任命され、さらにその地位を上げたのです。

 

231年、諸葛亮の第四次北伐で張郃は司馬懿とともに戦線に出ました。

しかし、張郃の出世を阻もうと企んでいたとされる司馬懿によって、張郃の立てた作戦はことごとく却下されたのです。

長期戦となった戦いの後、撤退しようとする蜀軍に対し、司馬懿は追撃を命令。

張郃はこれを怪しみましたが、司馬懿の命令に逆らえず追いかけ、ついに反撃に遭い乱戦中に矢を受け、亡くなってしまったのです。

張郃が最強の強さを見せたエピソード

ここまで張郃の生涯についてご紹介してきました。

武人として数々の戦地に赴き、特に蜀との戦いで功績を挙げた人物であることがわかりましたね。

ここからは、特に張郃が活躍した2つの戦いから、最強と言われた強さを裏付けるエピソードをご紹介していきたいと思います。

馬謖を打ち破った街亭の戦い

何と言っても、張郃の戦で一番有名なのが馬謖を打ち破った街亭の戦いでしょう。

諸葛亮の命令を無視して地の利の無い山頂に布陣した馬謖の落ち度もありますが、張郃が歴戦の武将の如き策略でじわじわと追い詰めていったのはさすがと言ってよい功績と言えますね。

山のふもとを制圧し、水路を絶つことで敵軍の士気を下げ、しびれを切らし攻めてきた敵軍を打ち破ったのは、経験が豊富でないとできない作戦だったことでしょう。

この戦いで張郃の武名はさらに蜀軍に広まり、恐れたとされています。

陳倉の戦いでの動きと郭淮との連携

もう1つ特筆すべき戦いは、同じく蜀の北伐の中で行われた陳倉の戦いでの動きでしょう。

張郃の功を労うために都に呼び戻そうとする皇帝の命に従いつつも、用が終わればすぐさま引き返し、蜀軍に張郃が来たとの焦りを呼ばせたのでした。

また、張郃は郭淮との付き合いも長く、対蜀軍との戦では常に連携していたそうです。

こうした張郃の動きが、さらに郭淮軍など他の軍の動きをも想像させ、結果的に陳倉の守備が成功したのかもしれませんね。

まとめ:歴戦の武将は対蜀軍戦で活躍を見せた

今回は三国志に登場する武将:張郃について解説してきました。

対蜀軍への戦績が素晴らしく、恐れを抱かせたのも納得のいく活躍を見せていましたね。

もう少し長生きしていれば、蜀軍はさらに困っていたことは間違いありません。

武人として戦場に散った、歴戦の武将として今後も名を残していくことでしょう。