三国志に登場する武将:張遼について解説していきます!

寡兵で大軍を破った戦の中でも、その戦力差が極めて開いているにも関わらず逆転した立役者ですね。

まさに武人と言えるその生涯は、三国志ファンであればぜひとも知っておきたいものではないでしょうか。

そこで今回は張遼の生涯について、最強と言われたかっこいい逸話も交えながらご紹介していきたいと思います。

張遼の生涯を最後の死因まで解説!

数多く存在する三国志の武将の中でも、故事成語の元となり人気が高い武将の1人が、今回ご紹介する張遼です。

複数の主君に仕えながらもその武勇をもって活躍し、どの君主の配下となっても重用された素晴らしい能力を持つ武将ですね。

特に、合肥の戦いでの活躍は歴史に残る戦功を挙げたことでも有名で、中国でもその勇名が現在も語り継がれているほどです。

そんな張遼がどんな生涯を送ってきたのか、早速見ていくことにしましょう。

丁原~董卓~呂布の配下として活躍

張遼の生年は165年と169年の2つの説がありますが、出身地は并州雁門郡馬邑県であることは共通していました。

前漢の聶壱の子孫に当たる張遼は、出身地が匈奴が縄張りとする地域の近くであり、かつ歴代に渡って恨みを買っていたことから、「張」の姓に改名したとされています。

若い頃の張遼は并州刺史の丁原のもとで武人として働き始め、黄巾の乱の鎮圧後に丁原とともに洛陽に赴きました。

しかし、招待主である時の大将軍:何進は暗殺され、都を乗っ取ろうと画策する董卓に丁原を殺されたことで、張遼の軍はそのまま董卓に吸収されたのです。

 

その後、その董卓も呂布によって殺害されると、張遼は呂布に従い各地を流浪する身となりました。

張遼が28歳の時、徐州を治めていた呂布によって魯国相に任命され、呂布配下でもその地位を確固たるものとしていったのです。

しかし、その呂布も曹操・劉備の連合軍に敗れ、198年に下邳の地で処刑されてしまいました。

張遼は曹操に降伏し、かねてからの武勇を聞いていた曹操は張遼を中郎将に取り立てたのです。

曹操に降伏~官渡の戦い以降の武功

曹操に降伏した張遼は、袁紹と繰り広げられた大決戦の前哨戦と言える白馬の戦いで、関羽とともに袁紹軍の猛将:顔良を破りました。

袁紹が亡くなった後はその残存勢力の掃討に尽力し、毎年のように戦果を挙げています。

特に、烏桓族との戦いになった白狼山の戦いでは袁紹軍の降将:張郃と力を合わせ、先鋒としての役割を十二分に果たしていました。

この働きで、曹操の評価はますます上がり、荊州攻略戦でも重要なポジションに任命されることになったのです。

 

赤壁の戦いで曹操が敗れた後、翌年の209年に混乱に乗じて反乱が起こりました。

張遼は反乱軍を率いる袁術軍の元武将:陳蘭の軍勢と対峙したのです。

陳蘭は山中にある要害に立てこもりましたが、張遼が部下の反対を押し切って行った攻撃で見事に陳蘭の首を取る活躍を見せました。

当時、楽進や于禁など魏の中でも特に戦功を挙げている武将の中でも、張遼はその筆頭として挙げられるほどの武勇を誇っていたのです。

合肥の戦い~最後

曹操が西方攻略に向かい、劉備とにらみ合いをしている中、張遼は孫権への守備を言い渡され合肥の地を守護していました。

かくして曹操の読み通り、215年に孫権が大軍勢を率いて合肥を攻撃しようと包囲してきたのです。

張遼は曹操の命通り、寡兵にも関わらず城から撃って出ることを決断し、仲が悪かった楽進や李典と協働し、孫権軍に奇襲をかけたのです。

わずか800人という兵で10万もの敵の中の本陣に突っ込んだ張遼は、孫権をあと一歩のところまで追い詰める活躍を見せました。

 

張遼の働きによって勢いを失った孫権軍に、追い打ちをかけるように疫病が流行り始めました。

またも張遼は軍を率いて撤退する孫権軍を追撃し、その武名を中華に轟かせる活躍を見せたのです。

張遼の功績は高く評価され、曹操が亡くなった後も息子の曹丕に張遼され、呉へのけん制として要所に駐屯させられました。

しかし、221年に体調を崩すと、職務をこなしながらも徐々に体がむしばまれ、翌222年にこの世を去ったのです。

張遼が最強と言われたかっこいい逸話

ここまで張遼の生涯についてご紹介してきました。

曹操軍の中でも他軍から降伏して配下になった外様武将でありながら、一番の戦果を挙げた武将だったことがわかりましたね。

ここからは張遼が最強と言われたかっこいい逸話についてもご紹介していきたいと思います。

合肥の戦いでのすごい活躍

何と言っても、張遼の一番の見せ場は合肥の戦いでの活躍でしょう。

上述した寡兵での奇襲もさることながら、撤退する孫権軍への追撃も容赦なく苛烈に攻め立てたことが記録として残っています。

孫権の意地の抵抗で取り逃がしてしまうものの、その武勇は晩年病床の身でありながらも、決して油断してはならないと孫権が部下に忠告するほど苦い思い出として印象付けられたようです。

「遼来来」という言葉や「泣く子も黙る」という表現は、張遼の武勇から生まれた言葉であることも、合肥の戦いですごい活躍を見せた裏付けであると言えますね。

三国志演義でも強すぎる武将として描かれた

曹操軍の武将はあまり良く描かれることの少ない三国志演義ですが、こと張遼の活躍については史実と同じか、それ以上に脚色されて強く描かれています。

呂布配下だったころは冷静な判断ができない呂布を諫めたり、関羽と夏侯惇がいがみ合っている時もその仲裁役として現れたりと、武芸だけでなく知謀や人望もあるキャラクターとなっていました。

史実と異なるのは、太史慈を罠にはめて討ち取るという戦功と挙げた点と、自らの死因についてですね。

史実では上記の通り病死なのですが、三国志演義では曹丕の呉征伐戦時に受けた矢傷が元で亡くなっています。

 

しかしながら、張遼の武勇は特に合肥の戦いの時に強すぎると言っても過言ではない表現をされていました。

楽進や李典を配下としてまとめ、曹操の策を見事に成功させたのは、史実と同様素晴らしい功績ですね。

やはり、張遼が中国でも尊敬される武将として語り継がれていたという証でしょう。

まとめ:泣く子も黙る猛将の功績はすごかった

今回は三国志に登場する武将:張遼について解説してきました。

まさに泣く子も黙る強さでその名を上げ、どの君主に仕えていた時も重用された理由が頷けるものでしたね。

今日まで三国志の中でも有名な武将として語り継がれてきたことは素晴らしいと言ってよいでしょう。