三国志に登場する武将:夏侯淵について解説していきます!

魏の将軍の中でも夏侯惇と並ぶ武将と言えば、今回ご紹介する夏侯淵が挙げられるでしょう。

曹操の片腕として戦場を駆け回り、数々の武功と挙げるも志半ばで散ってしまうことで有名ですね。

今回はそんな夏侯淵の生涯について、様々な逸話や人柄も含めご紹介していきたいと思います。

夏侯淵の生涯を最期の死因まで解説!

曹操が率いる軍勢の中でも、部隊の移動や奇襲など機動力を生かした戦いが得意なのが、今回ご紹介する夏侯淵です。

旗揚げ当初から数々の戦で功を挙げ、名を轟かせたことが記録にも残っています。

夏侯淵の子もそれぞれ有能であったという伝記が残るくらいで、血族のコネだけでなく優れた能力が受け継がれていたことの裏付けと言えますね。

そんな夏侯淵の生涯がどうだったのか、早速見ていくことにしましょう!

曹操旗揚げ~赤壁の戦い直後

夏侯淵の生年は不明ですが、若い頃から他人のことを重んずる行動をすることが多かったようです。

曹操が受けた罪の身代わりとなって捕えられたり、飢饉の中でも自分の子より親を亡くした姪を養育したりと、自分の幸せより他の誰かのために動いていたという記録が残っています。

上記のエピソードから曹操の旗揚げ当時より従軍し、曹操が治めた地の太守を担うなどしていました。

役職としては軍事を司る司馬になり、曹操軍の中でもやはり軍事に長けた人物として重用されていたようです。

 

赤壁の戦いが終わるまでは、主に曹操が治めていた地で起こった反乱への鎮圧に対処することが多く、数々の武功を挙げていました。

特に、他の武将で手に負えなかった賊にも立ち向かい、見事に打ち破る戦果を挙げていたそうです。

夏侯淵は敵軍の虚を突き、想像を超える進軍や奇襲を用いて多くの陣地を陥落させる働きぶりが有名でした。

「三日で五百里、六日で千里」と例えられるほどの行軍速度は、夏侯淵を甘く見た賊がことごとく敗れた原因とも言えるでしょう。

涼州征伐~漢中平定

数多くの武功を挙げた夏侯淵が最も評価されたのは、馬超・韓遂の反乱を鎮圧し、涼州を平定したことが挙げられます。

馬超との最大の決戦となった潼関の戦いで馬超軍が撤退した後、長安に駐屯した夏侯淵は張郃や徐晃ら魏の勇将を率い、周辺の部族や賊を打ち破り足場を固めました。

やがて、再起を図ろうとする馬超が涼州刺史の韋康を攻め滅ぼすと、その部下であった趙衢と尹奉が馬超に復讐、敗れた馬超が張魯の兵を借り、趙衢と尹奉を再び攻撃したのです。

救援を求められた夏侯淵は、曹操の命令を求めるよう話す部下に対し「返事を待つ内にやられてしまう」と返し、独断で救出に向かい、結果として援軍を恐れた敵軍が戦わずして逃げ出し、救出することに成功しました。

 

涼州のもう1つの火種であった韓遂に対しては、籠城する韓遂に立ち向かわず、先に韓遂を援護する羌族を攻めたのです。

このことで動きを見せた韓遂に対し、短期決戦を選択した夏侯淵は見事にこれを打ち破り、ついに涼州を平定させたのでした。

辺境の地であることから様々な部族がおり、度々反乱を起こしていた涼州付近の地でしたが、その後も夏侯淵によって周辺を制圧され、さらに215年には漢中攻略戦にも加わり功を立てています。

特に、夏侯淵が存命だったころは羌族との交渉時に夏侯淵の名前を使うことで、羌族が恐れおののき優位な条件を引きだすことができたそうです。

定軍山の戦いにて戦死

蜀の地で独立した劉備攻めの重要拠点として攻略した漢中でしたが、程なくして劉備軍の侵攻が開始しました。

夏侯淵は他の武将らとこれに対処し、善戦しましたが徐々に周囲の地を落とされ孤立していきます。

219年、劉備軍本隊は定軍山の地に陣を張った夏侯淵と対峙し、法正の策によっておびき出された夏侯淵に老将:黄忠の部隊が攻撃を仕掛けました。

何とか迂回して難を逃れた夏侯淵でしたが、反撃とばかりに背後を強襲した作戦が失敗し、戦場でその生涯を終えたのです。

夏侯淵の弓についての逸話や人柄・性格

ここまで夏侯淵の生涯について解説してきました。

数々の武功だけでなく、涼州平定という大きな仕事も成し遂げた武将であることがわかりましたね。

ここからは、武術に秀でた夏侯淵の逸話や、その人柄について詳しく見ていきたいと思います。

弓術に優れた猛将

夏侯淵と言えば、弓の腕に非常に長けた武将であることが有名です。

これは三国志演義での脚色によるところも大きく、作品中では様々なエピソードが盛り込まれていました。

銅雀台の落成式では、的に当たった4本の矢のいずれも真ん中を射抜くという離れ業を見せ、見る者を驚かせています。

また、同じく弓の名人であった黄忠と対峙した時は、相当な距離が離れた互いの陣から相手に向かって矢を放ち、いずれもあと少しのところで当たるという近さにまで飛ばしたというシーンもありました。

前線で戦う勇猛さと軽率さを併せ持つ性格

数々の武功を挙げた夏侯淵は、上記の通り速攻を得意としたことから、敵陣に切り込む勇猛さは軍の中でもずば抜けていたと言えます。

一方で、最後の死因にもつながった軽率さが仇となることも多く、曹操も勇猛さは認めつつも用心深さを持つよう忠告することも多かったようです。

戦における相手との駆け引きが苦手で、速攻で出し抜くことはできても相手の策に対処することはままなりませんでした。

死因となった法正の策に嵌った時も、指揮官であれば部下に任せるべき陣の修復に自ら出向くという行動を起こしたため、味方から「白地将軍」と揶揄されていた夏侯淵の最たる失敗として、曹操自ら怒りを露わにしたそうです。

まとめ:勇猛果敢な武将も軽率さに身を滅ぼした最後だった

今回は三国志に登場する武将:夏侯淵についてご紹介してきました。

曹操軍のエースとして歴戦の勇将と名高かった夏侯淵でしたが、最後は策に嵌り散ってしまったのです。

しかし、速攻で数々の武功を挙げたのは夏侯淵でないとできない芸当ではなかったのかと思います。

魏の功臣として名を残した夏侯淵の活躍は、ファンの心にも残るものとなるでしょう。