夏侯惇の経歴を最後の死因まで解説!目以外の逸話や性格についても

三国志

三国志に登場する武将:夏侯惇について解説していきます!

曹操の親戚であり、右腕的存在として活躍してきたのが、今回ご紹介する夏侯惇です。

戦場で片目を失いつつも、隻眼の武将としてその後も働いた逸話が有名な人物ですね。

今回はそんな夏侯惇の経歴を最後の死因や様々な逸話を交えてご紹介していきたいと思います。

夏侯惇の経歴を最後の死因まで解説!

曹操の親族として旗揚げの時から従軍し、魏の建国まで支え続けたのが、今回ご紹介する夏侯惇です。

三国志ファンなら知らない人はいないくらい有名な武将であり、ゲームやマンガ作品などでも描かれることの多い人物ですね。

戦場で片目を失った後も、隻眼の武将として働き続けた夏侯惇ですが、旗揚げ当初の様子や晩年の功績については知らない方もいるのではないかと思います。

まずは夏侯惇の経歴について、その最後まで確認していくことにしましょう。

生まれ~曹操旗揚げ当初

生年は不詳ですが、豫州沛国譙県に生まれた記録が残っている夏侯惇は、地元では曹操の旗揚げ前から気性の荒い人物として有名でした。

前漢に仕えた武将:夏侯嬰の末裔として、曹操と同じく名門の生まれであったのですが、夏侯惇が14歳の時、慕っていた師を侮辱した男に激高し、その男の命を奪うという逸話が残されています。

その後、黄巾の乱の鎮圧を命ぜられた曹操に従い各地を転戦し、190年に曹操が奮武将軍の位を称した時には、曹操軍の軍事責任を担う司馬の役職となりました。

 

反董卓連合の先鋒として、董卓配下の徐栄に戦を挑んだ夏侯惇でしたが結果は敗戦、失った兵を補充するために揚州に向かいましたが、ここで得た兵士も反乱によって大半を失ってしまいます。

連合解散後、兗州を中心に勢力を広げた曹操の命により、夏侯惇は白馬の地で一軍を任されるようなり、折衝校尉・東郡太守に任命されました。

このころ、夏侯惇はのちに屯田制の進言で有名となった韓浩や、曹操の命を幾度となく救った猛将:典韋など、在野にいた士を推挙していったのです。

呂布との戦い~袁紹との決戦

父:曹嵩が亡くなった原因を作ったとして、曹操が徐州の陶謙へ攻め入った際、夏侯惇も従軍のため守護していた濮陽を後にしました。

しかし、濮陽を守っていた張邈や陳宮の裏切りにより、兗州の大半が曹操から呂布の下に離反してしまったのです。

近くの鄄城にいた荀彧と程昱は夏侯惇に救援を求めましたが、やむを得ず軽装のまま援軍に駆け付けた夏侯惇は呂布の前に屈し、捕らえられてしまいます。

この時、駆け付けた韓浩によって夏侯惇は救出され、鄄城到着直後の夜に反乱者を処刑したそうです。

 

雪辱を期したい夏侯惇はその後の呂布討伐に参加しますが、左眼に流れ矢が当たり、失明してしまいました。

さらに198年、当時同盟関係にあった劉備を高順と張遼の攻撃から救うべく赴きますが、またしても敗戦してしまいます。

その後、曹操が袁紹を破り河北への侵攻を本格化させると、夏侯惇は後詰めとして戦地に赴きました。

この時、背後を突こうと考える荊州の劉表を牽制する働きを見せたと言われています。

南方進軍~晩年

北方の地を手中とした曹操が南方へ視線を向けた際、その先鋒として新野にいた劉備を于禁・李典とともに迎撃。

しかし、李典の忠告を無視して深追いした夏侯惇は、伏兵による返り討ちに遭い、李典に救出されるという失態を犯しています。

その後は并州の反乱鎮圧のために大軍を率いこれを打ち破り、翌年にはこれまでの功績が朝廷に認められ褒章を得ていました。

217年には対孫権防衛線の総指揮官に任命され、揚州一帯の部隊を指揮し曹操はさらに夏侯惇を褒めたたえたのです。

 

曹操の夏侯惇に対する信頼は非常に深く、219年には自らの寝室に出入りさせるなど他にない優遇ぶりを見せました。

なお、夏侯惇は曹操に帝位につくよう進言した1人でしたが、曹操は最後まで帝位につくことはなかったのです。

220年の正月に曹操が亡くなった直後、後を継いだ曹丕によって夏侯惇は大将軍に任命されましたが、すぐさま後を追うようにその年の4月に病死しています。

夏侯惇が亡くなった後、曹叡の時代になり、曹魏への功績がたたえられ、曹操と同じように祀られたそうです。

夏侯惇の目の逸話や性格

ここまでは夏侯惇の経歴についてご紹介してきました。

曹操の片腕として働き続けた功績は、曹操自身も認めるものだったようですね。

ここからは、夏侯惇の有名な目に関する逸話や性格について掘り下げていくことにしましょう

隻眼になった逸話は作品ごとで異なる

夏侯惇が隻眼となったのは上述の通り呂布との戦いの中で流れ矢に当たったことが原因と言われています。

失明し隻眼となった当初は、自らの顔を鏡で見るたびに嫌悪感を露わにし、周囲からは「盲夏侯」と言われ夏侯淵と区別されていたようです。

一方、三国志演義では呂布配下の武将:曹性が夏侯惇の左目を射抜いたことで失明しています。

射抜かれた直後、自ら矢を目玉ごと引き抜いて、「親からもらった体を捨てるわけにはいかぬ」とその目玉を食べ、曹性を逆に討ち取った話が、夏侯惇にとって一番有名な逸話でしょう。

 

実は、かつてNHKで放送されていた「人形劇 三国志」でも、夏侯惇が失明するシーンが演出されていました。

しかし、この時の経緯は上記とはまったく異なっていたのです。

夏侯惇が失明したのは上記よりずっと後、馬超との戦いの際に曹操を矢の雨から庇って失明したという設定でした。

このように、夏侯惇の失明原因は作品ごとで異なっていることがわかります。

実は戦下手だった!?

上記のように、夏侯惇の戦歴をまとめると勝ち戦より敗走する戦いの方が多いことがわかります。

特に序盤~呂布軍との戦いではその傾向が顕著で、万全の態勢で戦っていない戦もあるとはいえ、負けが込んでいるといっても過言ではありません。

劉備との戦いで大敗した博望坡の戦いでも、夏侯惇の判断ミスが脚色され良いところが無かったように描かれました。

袁紹との決戦での後詰めや反乱軍鎮圧などの功績もあり、最終的に大将軍にまで任命された夏侯惇ですが、実は戦下手だったのではないかと言われるのも無理はありません。

あまり荒々しくなかった性格

後の様々な作品では荒々しい性格であるがごとく描かれやすい夏侯惇ですが、実際の性格は正反対で、勉強熱心で質素な生活を送っていたようです。

たとえ戦に出ていたとしても、その陣中へ師を招き、勉学を怠ることがなかった逸話が残されています。

私財が必要以上に手に入ればその分民衆に分け与え、各地を太守として治めた実力も備えていました。

夏侯惇の墓には財宝の類は一切なく、剣一振りだけ残されていたことも、必要以上の財を持たない夏侯惇の性格が表れていますね。

まとめ:負け続きも人物的に認められた武将だった

今回は曹操の片腕として活躍した武将:夏侯惇についてご紹介してきました。

今日のイメージとは裏腹に負け戦が多かったのですが、人物的には曹操をはじめ、民衆にも慕われていたようですね。

イメージが変わっても、優れた武将としてファンの心を離さない人物であることには変わりはないでしょう。


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