皇甫嵩の生涯を最後の死因まで解説!黄巾の乱で見せたすごい強さも

三国志

三国志に登場する武将:皇甫嵩について解説いたします!

黄巾の乱において戦果を挙げた漢の武将として有名なのが、この皇甫嵩ですね。

しかしながら、その生い立ちから最期までを知っている方はあまり多くはないのではないでしょうか。

そこで今回は皇甫嵩の生涯をお伝えするとともに、一番功績を挙げた黄巾の乱での活躍も含めご紹介していきたいと思います。

皇甫嵩の生涯を最後の死因まで解説!

後漢末期に起こった最大の反乱である黄巾の乱に立ち向かった将軍の1人が、今回ご紹介する皇甫嵩です。

三国志では劉備や曹操の影に隠れがちな人物ではありますが、当時は位も高く、戦功面においても他の将軍よっり評価されていた人物とも言えますね。

しかしながら、その生涯はとてもつつましく、晩年の皇甫嵩がどのような人生を歩んだのかについて知っている方は多くないのではないでしょうか。

早速皇甫嵩の生涯について見ていくことにしましょう!

涼州出身の将~中央への出仕

皇甫嵩の生年は定かではありませんが、涼州安定郡朝那県が出身であることは文献によって明らかとなっています。

叔父である皇甫規は異民族討伐で名を挙げており、いわゆる名門の出ということで皇甫嵩も周囲に期待される人物として育ってきました。

その期待に恥じぬよう、皇甫嵩は若い頃から文武に励み、その能力を高め応えていきます。

真面目で信心深い性格も相まって、皇甫嵩を評価する人も増えてきたのでした。

 

そのこともあって、ついに皇甫嵩は孝廉に挙げられるというほど高い評価を得ることができましたが、父が亡くなったことを理由に皇甫嵩はこれを辞退。

その後も度重なる推挙を受けるも、皇甫嵩は決して出仕することはなく辞退し続けました。

頑なな皇甫嵩でしたが、その能力の高さを中央が見放すわけがなく、ついに霊帝が公車をもって招聘したのです。

このことに皇甫嵩も重い腰を上げ、ついに北方の太守を歴任するようになったのでした。

黄巾の乱勃発~名将と呼ばれた活躍

184年、張角が扇動し勃発した黄巾の乱は瞬く間に中華全土に広がり、戦乱の世が幕開けていきました。

皇甫嵩は戦に先駆け、腐敗していた朝廷の立て直しが優先と判断、宦官と外戚の対立が続いていた党錮の禁を終わらせることと、霊帝の持つ財宝・軍馬の解放を上奏したのです。

皇甫嵩の言はすぐに認められ、朱儁とともに討伐軍を率い反乱の鎮圧へと向かうことになりました。

初戦である潁川での戦いは、朱儁が苦戦した敵将:波才の軍を火計を用いて打ち破り、中央から高く評価されたのです。

 

この功が認められた皇甫嵩は各地を転戦し、次々と黄巾の乱を鎮圧し、いつしか名将と呼ばれるようになりました。

やがて、盧植・董卓が担当していた冀州方面の黄巾賊本隊を担当することになった皇甫嵩は、張角の弟である張梁の軍を撃破。

すでに病気によって他界していた張角の亡骸を接収し、その首を都へと送る戦果を挙げました。

もう1人の弟である張宝も打ち破った皇甫嵩は、乱の平定後、左車騎将軍・冀州牧としてその戦功を評されたのです。

十常侍・董卓との対立~最期

185年、十常侍の法令違反を通報したり賄賂要求を拒否したことがきっかけで、皇甫嵩は将軍の位を剥奪、領地も大幅に減らされてしまいます。

しかし、皇甫嵩の能力は高く、結局反乱を鎮圧できなかった将軍に変わって再度戦地に赴き、戦功を挙げていきました。

この時、配下についていた董卓の献策をことごとく退け、真逆の作戦で相手を撃破し続けたことが原因で、董卓の恨みを買ってしまったのです。

このことがきっかけで、翌190年に董卓が中央の実権を握ると、皇甫嵩の命を奪うべく中央へ召還命令を出し、それに拒否した皇甫嵩を逮捕してしまったのでした。

 

処刑寸前となった皇甫嵩でしたが、自らの子で董卓とも仲が良かった皇甫堅寿が董卓に嘆願したことで、何とかその命は救われます。

しかし、皇甫嵩は心まで董卓に屈したわけではなく、董卓が太師となった際の席でもあえて平服しなかったそうです。

その後、董卓が暗殺されたことで再び中央での権力を復活させ、大尉にまで昇り詰めました。

これから後漢の立て直しをと思っていた皇甫嵩でしたが、李傕らの反乱時に病に伏し、195年にそのまま天寿を全うしたのです。

皇甫嵩が黄巾の乱で見せたすごい強さ

ここまで皇甫嵩の生涯について、生年から最後までご紹介してきました。

黄巾の乱での活躍が顕著でしたが、つつましい性格から高位にまで昇りつめた人物であるとも言えますね。

ここからは皇甫嵩が見せた強さについて、黄巾の乱での活躍を中心にご紹介していきたいと思います。

朱儁・盧植・董卓より有能だった

瞬く間に信者を増やし、各地で暴れまわった黄巾賊ですが、統制された戦を行う正規軍の前に次第に劣勢になって行ったのは周知の事実です。

特に、皇甫嵩は各地で確実に戦果を挙げ、まさに名将と呼ぶにふさわしい活躍を見せました。

その能力は朱儁が苦戦した相手を策を用いて倒しただけでなく、元からやる気のなかった董卓や宦官の後ろ盾を得られず不利な立場となった盧植と比べても明らかです。

周囲と適度な距離感を保ちつつ、戦果を挙げていった点で言えば、間違いなく皇甫嵩が有能であったと言えるでしょう。

息子や親族も名将だった

上記のように、皇甫嵩の命を救ったのは他でもない息子の皇甫堅寿でした。

叔父の皇甫規も当時有名だっただけでなく、甥の皇甫酈も李傕と郭汜の争いを調停する際に活躍したと言われています。

名門の出と言っても過言ではない皇甫嵩の親族たちの活躍にも注目したいですね。

もちろん、皇甫嵩自身も上記のような戦功を挙げただけでなく、冀州牧となった際にも部下に優先して功を与えただけでなく、民衆にも慕われたという記録が残っていますよ。

まとめ:後漢の名将の名に恥じぬ人物だった

今回は三国志に登場した武将:皇甫嵩についてご紹介してきました。

黄巾の乱での戦功は間違いなく歴史に残る活躍だったと言えるでしょう。

その人徳から失脚した後も復活を果たしたことから、まさに後漢の名将の名に恥じぬ生涯を送ったと言えますね!


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