三国志に登場する武将:孟獲について解説いたします!

三国志演義では諸葛亮の引き立て役として描かれている豪族ですが、その生涯については詳しく知らされていません。

なぜこんなにも負けてしまう演出になったのか、どんな人生を送ったのか気になる方もいらっしゃることでしょう。

そこで今回は孟獲の生涯について、有名な七縦七擒のエピソードも紹介しつつお伝えしていきたいと思います。

孟獲の生涯を最後の死因まで解説!

劉備が亡くなった後の三国志演義の主人公が諸葛亮孔明に切り替わった時、最初の大きな敵として描かれたのが、今回ご紹介する孟獲です。

南蛮の地を治める豪族として描かれ、蜀が魏・呉と対抗する足場固めをする目的で挑んだ敵でもありますね。

異民族として描かれることの多い孟獲ですが、果たしてどんな人生を送ったのでしょうか。

早速見ていくことにしましょう。

生まれ~南中の豪族として名を馳せる

孟獲の生没年は不詳とされていますが、出身地は益州建寧郡であることが文献から残されています。

三国志関連の作品では異民族として描かれることの多い孟獲ですが、史実では漢人=中国人であるとされていました。

その姿は巨漢で、顎から胸元口周り全体を胸元まで覆うヒゲが映えている絵が残されています。

孟獲は南中の豪族として名を馳せており、中国南部にとどまらず、さらに南方のミャンマー北部にまで顔がきく存在だったそうですよ。

蜀への対立~諸葛亮との戦い

劉備が亡くなった後、南蛮の地を治めていた豪族は今が好機とばかりに反乱を企てようとしました。

孟獲は反逆の狼煙を上げた豪族:雍闓の誘いに応じ、南蛮の他の豪族へ同じように反乱への誘いを行ったのです。

225年、諸葛亮が本格的に反乱を鎮圧するために動き出したことを受け、雍闓が倒されると、孟獲はその後釜として豪族たちに指揮をとることになりました。

しかし、孟獲はあえなく諸葛亮に捕らえられ、処罰を受けてしまいそうになります。

 

窮地に追い込まれた孟獲でしたが、諸葛亮はあえて孟獲を逃がし、再戦をするようけしかけました。

孟獲はその後も幾度となく諸葛亮に挑みましたが、捕らえられては解放されを繰り返し、ついに7回目の捕獲時に降伏したのです。

諸葛亮はただ孟獲を力で屈服させるのではなく、心からの帰順を求めたゆえに、このような行動をとったのでした。

その甲斐もあって、孟獲はその後、生涯にかけて蜀への忠誠を誓い、反乱を起こすことは無かったそうです。

蜀への帰順後~最期

蜀へ帰順した孟獲は、諸葛亮の命により、南蛮の地に眠る勇士の推挙を始めました。

この行動で推挙された武将は蜀の地へ向かい、中央で活躍する人物へと成長したのです。

御史中丞まで出世した孟獲は、文字通り蜀の武将として功績を挙げ、蜀の下地を支えていきました。

その後の記録がないため、孟獲がいつどのようにして亡くなったのかは不明ですが、間違いなく蜀に貢献した人物になったと言えるでしょう。

孟獲が諸葛亮孔明に捕獲された回数や家族を紹介

ここまで孟獲の生涯についてご紹介してきました。

史実でも諸葛亮に捕らえられ続け、帰順したことが明らかとなりましたね。

ここからはそんな孟獲の有名なエピソードとして描かれている七縦七擒に着目し、捕獲された回数やその経緯についてご紹介していきたいと思います。

七縦七擒で捕らえられた回数と経緯

諸葛亮との戦いで捕らえられた孟獲の姿を描いたエピソードである七縦七擒。

文字通り、7回捕らえられ、7回釈放されるという、ある意味屈辱的な負け方をした孟獲ですが、何度もあきらめずに諸葛亮に挑んでいった姿勢は評価に値するものと言えるでしょう。

もちろん、それぞれ孟獲が行った対諸葛亮への作戦は異なっており、ある時は他の豪族の力を借りて対応したこともありました。

そこで、計7回の戦いについて、三国志演義での話を元にご紹介していきたいと思います。

1回目・2回目

雍闓たちを倒し勢いに乗る蜀軍と初めて戦ったのが1回目の戦です。

蜀軍をなめてかかっていた孟獲は、その力量を見誤り、あっさりと破れてしまいました。

すると孟獲は「蜀軍の陣容を良く知らなかったからだ」と負け惜しみを言い、ならばと諸葛亮はあえて蜀軍内を案内し、孟獲に情報を与えたのです。

この情報を元に2回目の戦を挑んだ孟獲でしたが、力及ばずまたしても破れてしまったのでした。

3回目

2度捕らえられた孟獲は諸葛亮が正攻法で倒せない相手であることに気づき、策を用いることにしました。

孟獲は弟である孟優に命じ、わざと蜀軍へ投降させ、油断した隙に外と内の両方から攻撃を仕掛けようと考えたのです。

かくして孟優は蜀軍に偽りの投降をしましたが、すでに策を見抜いていた諸葛亮によってしびれ薬入りの酒を飲まされてしまいます。

まんまと策に嵌ってしまった孟優から、期待していた援護を得られなかった孟獲はあっさりと敗れ、またも捕らえられてしまうのでした。

4回目

策を弄しても倒せなかった諸葛亮に対し、正々堂々と自分の土俵で戦わせてほしいと頼み込む孟獲。

諸葛亮はこれに応じ、軍を真正面から対峙させ、これを撃退しました。

4回目の捕獲に、孟獲はまだ心が折れず、逆にこの敗北から他の豪族の力を得て戦うことを考え始めたのです。

また、同じく捕らえられた孟優も諸葛亮から戦を止めるよう説得を受けましたが、泣きながらの命乞いでその場を乗り切り、再び反旗を翻す策を考えていったのでした。

5回目

自らの力では諸葛亮に対抗できないと悟った孟獲に、同じく危機感を覚えた南蛮の豪族が力を貸したのがこの5回目以降の話になります。

まず孟獲に助力した朶思大王の治める地には数々もの毒泉があり、口にするとたちどころに命を落としてしまうという恐ろしいものでした。

遠征で補給路の乏しい蜀軍は大いに苦しみましたが、孟獲の兄で隠居していた孟節の助力もあり、朶思大王の守る城にまでたどり着くことができたのです。

配下の裏切りによって孟獲ともども捕らえられた朶思大王は、続く6回目の戦いで籠城策をとるも破られ、討ち取られてしまったのでした。

6回目

次に力を貸したのは、猛獣を部隊として従え操る木鹿大王でした。

虎やオオカミなど、獰猛な肉食獣を使役するだけでなく、自らは象に乗って敵陣を蹂躙するという、蜀軍がこれまでにない戦いを強いられたことで有名ですね。

三国志演義内では獰猛な獣たちへの対策として、諸葛亮が木獣兵器を用いたというシーンが描かれています。

火や煙を噴く兵器におびえた獣は逃げ出し、強みを生かせなくなった木鹿大王は蜀軍に突撃をかけるも、討ち取られてしまったのでした。

7回目

木鹿大王も倒され、さらに南方へ落ち延びざるを得なかった孟獲を受け入れたのは、兀突骨という豪族でした。

南方でも強力な部隊を率いていると有名だった兀突骨は、藤の蔓を油で漬け込み編んだ鎧を着た藤甲兵という部隊を率い、蜀軍を苦しめます。

刃の通らない固い鎧でしたが、火に弱いという弱点を見抜いた諸葛亮によって、谷に誘い込まれ兀突骨もろとも火計で倒されてしまいました。

何も知らない孟獲は、その後蜀軍が化けた兀突骨の部隊に油断し、あっさりと捕らえられてしまったのです。

孟獲の家族は架空の人物だった?

何度も捕らえられては諸葛亮に挑んでいった孟獲ですが、捕らえられた時は本人だけでなく、家族も同様に逃がしてもらっていました。

孟獲の家族で有名なのは、孟獲の妻であり、火の神の末裔と自称する祝融でしょう。

この祝融は架空の人物で、三国志演義にのみ登場する、孟獲というキャラクターを引き立てるものでした。

またこの他にも、弟の孟優や兄の孟節、祝融の弟である帯来洞主が架空のキャラクターとして登場しています。

まとめ:諸葛亮の引き立て役となるも重要な仕事を担った人物だった

今回は三国志に登場する武将:孟獲についてご紹介してきました。

負けてもなお戦い続けるという、あきらめの悪さが印象的な人物でしたが、史実ではその後の蜀を支える重要な役割を担っていましたね。

これから先も印象的な人物として、三国志のなかで注目されることでしょう。