曹仁の生涯を若い頃から死亡まで解説!最強と言われる強さのエピソードも

三国志

三国志に登場する武将:曹仁について解説していきます!

曹操の親族として魏の建国に携わり、数々の戦場で名を残してきたのが、今回ご紹介する曹仁です。

魏の大将軍にまで上り詰めた曹仁の経歴を最後まで知っている人はおそらく少ないのではないでしょうか。

そこで今回は曹仁の生涯について、彼の若い頃から亡くなるまでを様々なエピソードを交えながらご紹介していきたいと思います。

曹仁の生涯を若い頃から死亡まで解説!

曹操の従弟として付き従い、各地を転戦し戦果を残してきたのが曹仁です。

魏の建国直後までの戦で彼の名前を見ない戦いの方が少ないのではないかというほど、曹操の信頼も厚かったことが現れています。

若い頃から亡くなるまで、魏のために尽くしてきた曹仁がどのような生涯を送ったのか、三国志ファンであれば知っておきたいところですね。

早速、彼の若い頃から順番に見ていくことにしましょう。

若い頃~袁紹討伐後

168年に豫州沛国譙県で生まれた曹仁は、幼い頃から武術を学び、弓術や馬術はお手の物という評価を受けていました。

弟の曹純とは別居しており、14歳の時に父親が亡くなった際も家督を曹純が継いでいました。

曹操が旗揚げし、虎牢関の戦いを経て独立した直後から騎兵隊長としての活躍を見せ始め、袁術や陶謙との戦で戦果を挙げています。

196年に献帝を擁護した際も、一国の太守を任されるほどの戦果を挙げたにもかかわらず、曹仁の腕を見込んだ曹操が引き続き騎兵隊長に任命するほど、戦上手だったのです。

 

張繍が治める宛への侵攻戦では、敗走する曹操に別動隊として合流し、追撃する張繍に手痛い反撃を行ったことで曹操の評価をさらに上げました。

200年に勃発した袁紹との戦いでは、迫りくる劉備軍に対して動揺する曹操をなだめ、自ら騎兵隊を率いて打ち破り侵攻を食い止めています。

袁紹が亡くなり、その親族として最後まで抵抗を続ける高幹が籠城した際には、攻めあぐねる曹操に進言し、ついに降伏させる活躍を見せました。

こうして、曹仁の活躍もあり曹操は河北をすべて自らの支配下にすることができたのです。

赤壁の戦い後~荊州防衛線

赤壁の戦いの後、曹操が撤退した後の防衛線として南郡に駐屯した曹仁は、勢いづく孫権軍を相手に善戦しました。

部下の武将:牛金が窮地に陥った際にも、牛金の不甲斐なさに対する怒りを覚えつつも自ら手勢を率いて救出し、敵軍をも感服させる働きを見せています。

一年間にわたり防衛線を維持していた曹仁は周瑜に対し、後に致命傷となる傷を負わせるなど奮闘しましたが、徐々に不利な状況へと追い込まれ、最終的に劉備軍に包囲され止む無く撤退しました。

その後は首都を狙う馬超を食い止めるべく潼関に布陣、後に言う潼関の戦いで戦果を挙げています。

 

再び荊州の守備についた曹仁は、樊城を拠点として218年に起こった反乱を鎮圧。

翌219年に起こった関羽との荊州争奪戦では、長雨を利用した関羽の水計に混乱する現場を鼓舞し、満寵とともに軍紀を徹底して守るよう発し結束を高めました。

結果として、少ない軍勢をまとめ上げた曹仁は援軍としてやってきた徐晃の活躍もあり、関羽を撃退することに成功。

これにより、同盟を組んでいた孫権軍が関羽を捕え、劉備軍の侵攻を食い止める結果となったのです。

魏朝成立後~死亡

樊城での働きを評価された曹仁は、220年に曹操の跡を継いだ曹丕から車騎将軍の称号をもらいました。

翌221年には大将軍となり、同時に軍事を司る役職の最高峰となる大司馬にも任命されたのです。

その後は勢力を増す孫権軍をけん制するために濡須に駐屯することになりますが、大きな戦果を挙げられず撤退しています。

223年3月19日、軍を引いた直後に56歳という年齢で亡くなりました。

曹仁の最強と言われた強さに関するエピソード

ここまで曹仁の生涯について解説してきました。

さすがは歴戦の戦上手とあって、数々の戦果を挙げていることがわかりましたね。

ここからはそんな曹仁の強さについて、エピソードを交えながらご紹介していきたいと思います。

冷静な戦上手で大将軍にまで出世

何と言っても、曹仁がここまでの戦果を挙げることができたのは、冷静に戦況を分析して判断できる戦上手なところではないでしょうか。

袁紹との戦いでも、兵の結束が弱い劉備軍の動きを見抜いたり、籠城する敵兵を誘い出したりと、相手の状況を見抜く力に長けていることがわかります。

また、味方を鼓舞し、時には軍紀を持って厳しく接するところも、兵の動かし方を心得ている証拠ですね。

大将軍にまで出世できた理由も、上記のような判断力を遺憾なく発揮していたことを考えれば当然のことと言えます。

三国志演義では真逆の評価

一方、三国志演義では数々の戦場に出ていたこともあって、やや噛ませ犬的な扱いをされることが多いです。

冷静さを持つ本来の姿とは対照的に、敵の策に嵌り、他の意見を聞かずに失敗するといったシーンが多く描かれています。

曹洪と同じく、曹操軍の中でも登場回数が多かったことも、上記のイメージを強くした要因でしょう。

劉備を主人公とした三国志演義であるがゆえに、その引き立て役として描かれてしまったことから、こちらの曹仁のイメージを持つ方も多いのではないでしょうか。

性格に関する逸話

実際の曹仁の性格については、若い頃は乱暴狼藉を働くことの多い人物だったことが明らかとなっています。

しかし、曹操の配下になった時から、それまでの過ちを反省し、逆に軍紀を厳しく守る人物に変わったそうです。

その変貌ぶりを高く評価する曹操は、自らの息子で勇猛さばかり前面に出す曹彰に、曹仁を見習うよう忠告したこともありました。

三国志演義での性格とはやはり異なることが、このことでもわかりますね。

まとめ:魏の大将軍になった曹仁の功績は素晴らしい!

今回は三国志に登場する武将:曹仁について解説してきました。

冷静さを持ちながら戦果を挙げ、最終的に魏の大将軍にまで出世したことは素晴らしい功績と言えるでしょう。

三国志演義とのギャップも楽しめる、曹仁の活躍はファンにとってもたまらないものではないでしょうか。


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