三国志に登場する武将:曹休について解説していきます!

曹一族の中でも特に呉との闘いの記録が多いのが、今回ご紹介する曹休です。

敵の策に嵌り大敗してしまう、というイメージが強い武将ですが、その生涯がどうだったのかまでご存知の方は少ないのではないでしょうか。

そこで今回は曹休の生涯について、特にかわいがられた曹操や因縁深い周魴とのエピソードも交えながらご紹介していきたいと思います。

曹休の生涯を最後の死因まで解説!

曹操軍が誇る精鋭部隊:虎豹騎を指揮し、数々の戦果を挙げた武将の1人が、この曹休です。

曹操の寵愛を受け、期待に応える活躍を見せたことが印象的ですね。

一方、石亭の戦いでの失態が良く描かれることもまた、曹休を語るうえで外せません。

そんな曹休の生涯がどういうものだったのか、早速若い頃から見ていくことにしましょう。

若い頃~漢中防衛線

曹休の生年は不明ですが、他の曹一族と同じ豫州沛国譙県の生まれであることは明らかとなっています。

若くして父を亡くした曹休は、年老いた母とともに呉郡に身を寄せ、かつて自らの祖父が太守をしていた肖像画に涙していたそうです。

そんな曹休が一族の曹操が旗揚げしたとの報を聞き、一族のために奮起。

周囲に素性が知られると捕虜になりかねない危険を顧みず、偽名を使って曹操の下に馳せ参じたのです。

 

曹休を一目見た曹操は、一族の中でも優秀な人材であることを見抜き、自らの息子:曹丕と同様にかわいがったそうです。

それからというもの、曹休は常に曹操の側で各地を転戦し、その戦いぶりを学んできました。

曹休には精鋭ぞろいの虎豹騎隊の指揮権が与えられ、ひとたび戦場に出れば必ず戦果を挙げ戻ってきたそうです。

特に、218年の漢中攻防戦では、主将として劉備軍の呉蘭・雷銅の部隊を大破、さらには張飛や馬超の軍勢をも退ける活躍を見せています。

対呉戦線での活躍

やがて曹操が亡くなり、曹丕が後を継いでからも彼から信頼され、同年に亡くなった夏侯惇の後釜として対呉戦線の重要ポストに任命されました。

夷陵の戦いで蜀軍を打ち破り、勢いに乗る孫権軍が魏への侵攻をにらんでいた時、曹休がこれを破り大きな戦果を挙げています。

やがて、曹丕が大規模な国外侵略作戦を打ち立てると、一族の曹仁や曹真、夏侯尚らと協力して三方から呉への侵攻を開始しました。

この時、曹休は征東大将軍に任命され、26軍の総指揮をとったのです。

 

洞口での戦いは暴風雨も重なり、混乱する呉軍を攻撃し一定の戦果を挙げました。

しかし、その後に臧覇に追撃を命じた曹休の作戦が失敗に終わり、逆に反撃を受けてしまいます。

勢いに乗った呉軍を止めることができず、曹休は軍をまとめて引き返すことしかできませんでした。

この戦いで大きな戦果を挙げることはできませんでしたが、一応の働きを見せたことで引き続き呉への備えを任される結果となったのです。

石亭の戦い~最期

曹丕が亡くなった後、大司馬にまで昇進した曹休は、228年に司馬懿・賈逵とともに再び呉への侵攻作戦を開始しました。

しかし、偽りの投降をしてきた呉の武将:周魴の計略が見抜けず、敵陣深くに誘い込まれた挙句、周魴に裏切られ大敗を期してしまいます。

石亭の戦いと呼ばれたこの戦いで、策を警戒し事前策を備えていた賈逵らに助けられ、曹休はなんとか脱出できたのでした。

しかし、このことが祟ったのか、悪性腫瘍を患ってしまった曹休は精神的ショックも大きかったことも重なり、同年亡くなってしまうという、あっけない最期を遂げたのです。

曹休の性格や曹操・周魴とのエピソード

ここまで曹休の生涯についてご紹介してきました。

呉で幼少期を過ごし、その呉への侵攻を担っていたという、幼い頃の因縁を抱え生きてきた人物とも言えますね。

ここからは、そんな曹休の性格や、特に有名な曹操や周魴とのエピソードをご紹介していきたいと思います。

曹操との関係は曹丕にも続いた

曹休が曹操の下に馳せ参じた時、曹操は自らの側近に「我が家の千里の駒なり」と紹介したそうです。

どんな遠い地でも向かい、忠実に任務をこなしてくると評価した曹操は、曹休の能力を見抜いていたと同時に、親族であること以上の信頼を置いていた現れでしょう。

この関係は曹丕にも引き継がれ、皇帝となった曹丕が戦地に赴く曹休に対し、自ら手を取って見送るまでの行動を示しています。

呉に大敗を期した時にも、重大な責任を問わなかったことから、その信頼度は大きかったことが伺えますね。

周魴に騙されたのは母親思いの性格が原因か

そして、やはり一番のエピソードは石亭の戦いでの周魴とのエピソードですね。

自らの髷を切って信用を勝ち取った周魴と、それに騙されてしまった曹休の図が有名ですが、曹休が騙された理由はもっと別のところにあると考えられます。

実は、石亭の戦いの約6年前、曹休の母が亡くなった時にショックのあまり憔悴し、食事もとれなかった時期がありました。

かわいがられた曹操や一緒に育ってきた曹丕、さらには苦労を掛けた母が亡くなり、心の拠り所を短期間に失ったことで、曹休は精神が不安定になっていたのかもしれません。

 

そこに、忠義を示そうと目の前で髷を自ら切り落とした周魴が投降してきました。

当時、髷を切り落とすことは相当の覚悟が無いとできないことでした。

その周魴に、若くして母親を置いて出ていき、苦労を掛けた母親への思いや覚悟を決めていた自分の影が、ひょっとしたら重なったのかもしれません。

賈逵に助けられた後も、曹叡に「賈逵の進軍が遅過ぎたからだ」と的外れな逆恨み発言をしたことからも、周魴に自分を重ね合わせていたことが原因だったのでしょう。

死因となった背中の腫瘍と曹休の墓

結局、石亭の戦いでの敗戦によるショックが大きかった曹休は、背中に大きな腫瘍を患ってしまいました。

急激に進行する悪性のタイプだったことや、敗戦からくるストレスで一気に体調を崩した曹休にとって、この背中の腫瘍が死因となってしまったようです。

魏国でも功臣として扱われた曹休は丁寧に埋葬されたようで、その墓が2010年5月17日に河南省洛陽市孟仁県で発見されています。

墓の中には推定50歳と思われる曹休と、その妻と思われる40歳代の女性が埋葬されていたそうですよ。

まとめ:君主にかわいがられ呉に翻弄された人生だった

今回は三国志に登場する武将:曹休について解説してきました。

曹操や曹丕といった君主にかわいがられ、虎豹騎を率いて呉との戦いで戦果を挙げた武将だったことがわかりました。

一方、石亭の戦いでは自らの影を周魴に重ねてしまったことで、手痛い敗戦を期したことも描かれていましたね。

人間味あふれる曹休でしたが、その人生は呉に翻弄されたものだったと言えるでしょう。