三国志に登場する猛将:太史慈について解説していきます!

孫呉の武将として活躍した武将である太史慈。

孫家の配下になるまでのエピソードが有名ですが、その後や最後がどうなったのかについてはあまり詳しく知られていないのが現状です。

そこで今回は、太史慈の生涯を様々なエピソードを交えながら、亡くなるまでを時系列にまとめつつ解説していきたいと思います。

太史慈の生涯を最後の死因まで解説!

自身が受けた恩義は必ず返す、素晴らしい性格として知られているのが今回ご紹介する太史慈です。

三国志に関する作品やゲームでも優れた武将として描かれることが多く、この後ご紹介していく数々のエピソードからも非常に好感の持てる人物であると言えるでしょう。

やはり有名なのは太史慈が孫策の配下に加わった経緯についてのエピソードだと思いますが、その生涯について知らない方は多いのではないでしょうか。

まずは太史慈の生涯を時系列で確認していくことにしましょう。

出生~青州・北海の孔融との関係

もともと太史慈は166年、青州東莱郡黄県の生まれで、後に孫権が治めるようになる建業(現在の建康)にいたわけではありません。

若い頃から武術や学問を好み、その身の丈は七尺七寸(約177cm)で髭の似合う顔だったようです。

特に、弓矢の腕は素晴らしいもので、遠くにいる山賊が太史慈を挑発した際、その盗賊がつかんでいた木とともに射抜いたという逸話が残っています。

 

成人した太史慈は故郷である東莱郡の官吏(役人)となりましたが、一時期隣県との交渉で青州に不利な条件を飲むよう計らったことで、遼東の地へ左遷させられてしまいました。

その間、老いた母親を地元の政治家であり、後に漢詩でも名をはせる孔融が面倒を見ていたそうです。

このことに恩義を感じた太史慈は、後に孔融が黄巾党の残党である武将:管亥に攻められた時、危険を顧みず孔融の援軍に向かい、見事救出することに成功しました。

太史慈の働きぶりに孔融だけでなく、太史慈の母親も太史慈のことを褒め、有能な武将としての名をはせるようになったのです。

劉繇の食客時代~孫策配下になるまで

孔融を救出した後、太史慈は同じ郷里の出身で、当時揚州刺史(現在の長官)となっていた劉繇の下に身を寄せました。

食客として一時的に身を寄せていた太史慈でしたが、劉繇の下を去る前に後の君主となる孫策の侵攻を知ります。

かつての勇猛ぶりを知る家臣は太史慈を将軍として起用するよう劉繇に進言しましたが、劉繇は太史慈を将軍にすると、自分が食客に州の大事を任せた無能な刺史と言われないか、という世間体を気にしたため、結局太史慈に偵察任務のみ言い渡したのです。

しかし、この偵察任務こそが運命の分かれ目だったのです・・・。

 

なんと、太史慈の前には手練れの武将十数人を携えただけの孫策が現れたのでした。

太史慈は孫策に真っ向から一騎打ちを挑みましたが、武芸達者で知られる孫策も引けを取らず、首を討ち取ることができなかったのです。

この経緯を失態と評価した劉繇は太史慈を重用することはなく、ついには孫策に敗れてしまいました。

太史慈は孫策に抗おうとする兵を集め決戦に挑もうとしましたが、それでもなお自分を必要とする孫策の度量の大きさを認め、軍門に下ったのです。

孫権の武将としての活躍~最後

孫策が早逝した後、孫権が君主となってからもその武芸を遺憾なく発揮した太史慈。

孫権が父:孫堅の仇である黄祖の討伐を宣言した戦いでも武功を挙げ、黄祖の後ろ盾となっていた劉表の軍勢も幾度となく撃退したことで知られていますね。

その後ですが、太史慈の死期は正史と三国志演義で異なって描かれています。

 

正史では赤壁の戦いが行われた208年の2年前、206年に41歳という年齢で亡くなりました。

「大丈夫という者がこの世に生まれたからには、七尺の剣を帯びて天子の階を登るべきを、その志が実現できぬ内に死ぬ事になろうとは」という最期の言葉が記録として残っており、戦死ではなく病死であることが伺えますね。

一方、三国志演義では赤壁の戦い以後も活躍し、合肥の戦いでは張遼との一騎打ちを繰り広げるシーンも描かれています。

その後、太史慈の策を逆手に取った張遼の策に嵌った太史慈は董襲に助けられ何とか生き延びるも、その時に受けた矢傷が原因となり亡くなったと描かれました。

太史慈の強さや孫策との約束を守ったエピソード

ここまで太史慈の生涯とその最後についてご紹介してきました。

武芸に秀でながらも早逝したという武将で、もっと長生きしていたら、と思ってしまう人物でしたね。

太史慈の人となりがわかるエピソードにここまで触れてきましたが、より詳しくその内容についてご紹介していくことにしましょう。

敵を油断させ撃退した知謀

まずは孔融の援軍として管亥と戦った際のエピソードです。

太史慈が駆けつけた時にはすでに孔融はピンチの状況で、管亥率いる黄巾党の残党は勢いづいていました。

そこで、太史慈はわざと場外で弓矢の練習を何日も行い、敵の注目を集めたのです。

幾度となく練習を繰り返す太史慈に興味を失ってきたころを見計らい、油断した管亥軍を撃退し、さらには劉備に援軍を頼むという大業を成し遂げたことが、太史慈の武名を世に知らしめた逸話となりました。

孫策との約束を守ったエピソード

太史慈の忠義心を表す有名なエピソードは、やはり孫策の軍門に下る時の話でしょう。

劉繇の敗残兵をまとめた太史慈は孫策への最後の抵抗とばかりに砦に立てこもりました。

しかし、数で劣る太史慈の軍勢が勢いずく孫策軍にかなうはずがなく、ついには降伏する道を選んだのです。

太史慈は自らの首を刎ねるよう孫策に求めましたが、一騎打ちの件で太史慈の強さを認めていた孫策は太史慈を部下にしたいと説得したのでした。

 

その言葉を聞いた太史慈は孫策の度量の深さを認め、自ら他の敗残兵をまとめて孫策の軍門に下ると言ったのです。

他の家臣からは再び太史慈が抵抗するのではないか、と反対されたにもかかわらず、孫策は太史慈の要求をあっさりと認めました。

かくして野に放たれた太史慈は、孫策の家臣が心配する通り反逆の道を選ぶこともできましたが、義理堅い太史慈は約束通り敗残兵をまとめ、孫策の下に戻ったのです。

約束は必ず守り、その忠義心を示した太史慈に、誰も異議を唱えるものはいませんでした。

主君や親を大切にする忠義の士

上記のように、太史慈の忠義に溢れた性格はとても有名で、よく孫策とのエピソードが引き合いにされることが多いです。

孔融への恩を返すための助太刀や、左遷させられても親のことを案じる心は特筆すべき点でしょう。

これ以外にも、実は孫権配下となった後に曹操から配下にならないかと誘われていたエピソードがあります。

青州出身という点を引き合いに好条件でスカウトしようとした曹操でしたが、太史慈はやはり孫権への恩義を選び断ったそうです。

まとめ:最後まで主君との約束を守った呉の武将!

今回は孫呉の武将:太史慈についてご紹介してきました。

受けた恩義は必ず返し、主君を裏切ることの無い忠義心の塊のような存在でしたね。

早逝したことが悔やまれますが、それでも十分歴史に名を残した人物と言えるでしょう。