三国志における有名武将「典韋」の出生から最後の死因までを解説します!

西暦180年ごろから約100年もの間、激動した中国の歴史:三国志。

数多の武将の中でも忠義の士として壮絶な最期を遂げたのが、筆者である私が最も好きな典韋という武将です。

今回はそんな典韋の出生から最後までを、様々なエピソードを交えてご紹介していきたいと思います。

典韋の出生から最後の死因までを解説!

三国志の中でも、とりわけ魏や君主:曹操が好きな方は必ずと言って良いほど知っておきたいエピソードに絡むのが、今回ご紹介する典韋です。

義侠心あふれる猛将として、曹操に降りかかる数々のピンチを切り抜けられるよう最前線で戦った親衛隊とも言える存在ですね。

壮絶な最後を迎えたことでも有名ですが、いつ・どのタイミングで典韋が曹操の配下になったのかまでは知らないという方もいるのではないでしょうか?

そこで、まずは典韋の出生から最後までを時系列でまとめてご紹介していきたいと思います。

忠義の敵討ち~夏侯惇のスカウトで曹操配下に

典韋の出生年は資料が無く不詳となっていますが、若い頃から義侠心あふれる傑物として知られていたそうです。

若い頃のエピソードで有名なのが、世話になっていた劉氏のための敵討ちの話でしょう。

劉氏の仇であった県令(今で言う県知事)の李永を討つため、典韋は客を装って単身で李永に近づき、油断した隙に李永とその妻を討ち取ったのです。

そのあまりの豪傑ぶりに、騒ぎが大きくなるも典韋に寄り付こうとする人はおらず、追っ手もあっさりと撃ち払ってしまうという豪傑ぶりを見せつけたのでした。

 

その後、張邈の配下となった典韋は、複数人で掲げる牙門の旗を1人で持ち上げるなどの怪力を見せつけ活躍。

しかし、同僚と衝突したことがきっかけで張邈の下を去らなければならなくなってしまいました。

その際に、典韋を偶然発見し、その力を認めた夏侯惇の推挙:スカウトで、生涯の君主となる曹操の配下となったのでした。

悪来命名~親衛隊としての活躍

曹操の配下となった典韋は、最初のうちはスカウトされた夏侯惇の部隊で戦っていました。

そこで数々の武功を上げた典韋は、軍事を司る司馬という位を与えられ、一人前の武将として名をはせたのです。

さらに、典韋の豪勇を証明したのが、濮陽の戦いで三国一の猛将:呂布と曹操が戦った際のエピソードが挙げられます。

 

曹操配下だった軍師:陳宮の策により、窮地に追いやられた曹操を救うべく、たった数十人の突撃隊を率いた典韋。

自慢の武器である短戟と飛刀で敵を蹴散らし、矢の雨が降る激戦区を駆け抜け曹操の救出に成功したのです。

この一件で曹操の信頼を得た典韋は、曹操の親衛隊数百人を率いる隊長として、曹操の護衛だけでなく先陣を切って武功を挙げるなど功績をさらに残しました。

武猛校尉となった典韋は、のちに曹操の親衛隊長となる許褚とのエピソードから、「古の悪来のようである」と評されるようになったのです。

宛城の戦い~その後

曹操の親衛隊として許褚と並び活躍していた典韋でしたが、建安2年(197年)に降伏させた張繍の居城である宛城にて壮絶な最後を遂げます。

張繍の親戚である未亡人:鄒に入れ込んでしまった曹操の態度に激怒した張繍は、当時家臣であった軍師:賈詡の策を用いて曹操暗殺を企てたのです。

親衛隊長として曹操の護衛をしていた典韋も、張繍配下の猛将:胡車児によって武器を奪われ、酒を飲んだ状態で戦わなければならないハンデを背負わされてしまったのでした。

それでも典韋は勇猛果敢に立ち向かい、次々と襲い掛かる兵士を撃退し、次第に敵の方が恐れを抱くような活躍を見せたのです。

 

しかし、奮戦も空しく、最後は体中に傷を負い、ついには力尽きてしまいました。

敵兵を両脇に抱えて大声をあげながら絶命した、矢の雨を浴びせられながらも敵をにらみながら立ったまま亡くなった、などその最後の姿は諸説あります。

ただ、いずれにしても敵兵が恐怖のあまり、絶命後もしばらく近寄れなかったという活躍を見せたことに変わりはありません。

曹操はこの戦いで亡くなった自らの息子以上に典韋を失ったことを悲しみ、典韋の子:典満を優遇し取り立てたり、近くを通るたびに典韋を弔ったりしたそうです。

典韋の性格・強さに関するエピソード

ここまで典韋の出生からその最後までをご紹介してきました。

忠義の士としての壮絶なラストは、曹操だけでなくエピソードを知った三国志ファンの心にも深く残るものだと思います。

それはただ単に奮戦して亡くなったわけではなく、典韋の忠義の士としての性格や強さに関するエピソードがあったからだと考えます。

ここからはそんな典韋の性格や強さについてご紹介していくことにしましょう!

虎とじゃれ合っていたところをスカウト

もともとは張邈の配下だった典韋が曹操の配下となったのは、夏侯惇の推挙があったからだと上述しました。

三国志演義では、同僚を殺害したことが原因で逃げ出した典韋が、山中でなんと虎とじゃれ合っていたところを夏侯惇が発見した、というのがきっかけだと描かれています。

当然ながら、虎は獰猛な生物なので、じゃれ合うというよりは喰われまいと戦っていたのでしょうが、たとえ武器があったとはいえ、生身の人間が虎を相手にするのは恐ろしいことに変わりはありません。

力の部分での強さだけでなく、恐怖心が無く果敢に立ち向かう精神が、典韋の強さの源だったと言えるでしょう。

許褚との一騎打ち

対武将としての典韋の強さを語るエピソードは、同じく親衛隊の同僚として活躍した許褚との話が挙げられます。

黄巾党の残党に抵抗するレジスタンス的な立ち位置で戦っていた農民出身の許褚は、その豪傑ぶりを曹操に認められるほどの存在でした。

三国志演技では、黄巾党の残党の大将である何儀を捕えた許褚と、何儀を引き渡すよう求める典韋が一騎打ちをするというシーンが描かれています。

結局、一騎打ち自体は許褚を配下に加えるための策で中断してしまうのですが、許褚が後に馬超と互角の勝負をするなどの武勇が知られていることから、典韋も同等の武勇を誇っていたことが証明できますね。

弁慶並みの忠義の士

ただ猛勇を奮うだけでなく、自らが信頼する主君のために命を投げ出す覚悟で行動するのが、典韋の素晴らしい魅力と言えるでしょう。

普段はとても慎み深い性格だったと語られている典韋は、常に曹操の側で護衛し、寝食をともにするなどプライベートを投げうってまでも尽くしたそうです。

「弁慶の立ち往生」のことわざの由来となった、弁慶の最後に似た死因が三国志演技で描かれていることからも、日本人にとって典韋が忠義の士だったことが容易に想像できるかと思います。

曹操自身が、典韋が亡くなったことを一番後悔し悲しんだことも、周りの人間だけでなく重役を任せた主君も典韋の事を認めていた証ですね。

まとめ:義侠心あふれた悪来の強さは必見!

今回は三国志に登場する猛将:典韋についてご紹介してきました。

宛城の戦いでもし生き残っていたとしたら、その後も歴史に残る活躍をしていたかもしれませんね。

義侠心にあふれた「悪来」の強さは、今後も三国志ファンの胸に残り続けることでしょう!