荀彧の生涯を最後の死因まで解説!性格やあだ名についての逸話も

三国志

三国志に登場する文官:荀彧(じゅんいく)について解説していきます!

曹操が台頭し、魏が盛隆を極めるまでを献身的に支えたのは、武将だけでなく文官の力も大きかったです。

その文官の中でも、曹操配下として特に有名なのは今回ご紹介する荀彧ですね。

そこで今回は荀彧の生涯について、その性格や最後がどうだったのかも含めてご紹介していきたいと思います。

荀彧の生涯を最後の死因まで解説!

数多くいる曹操配下の文官の中でも、とりわけ曹操が魏公となるまでの功が高かった文官を挙げるならば、今回ご紹介する荀彧をおいて他にはいないでしょう。

様々な文官が荀彧の推挙で曹操の下で働いただけでなく、生涯において曹操に献策した数はとても多く、重要な功を挙げた数も多かったからですね。

その一方で、晩年はとある理由で曹操と距離を置いたことも有名な話となっています。

一体荀彧はどのような生涯を送ったのか、早速見ていくことにしましょう。

名家の生まれ~曹操配下に

163年、荀彧は豫州潁川郡潁陰県に生まれたことが、記録に残されています。

かつて、中国の戦国時代に名を残した思想家かつ儒学家である荀子の末裔であり、父である荀緄は済南国の相として働いていました。

荀彧は名家として幼い頃からその才能を発揮しているのと同時に、実は政治的に利用させられようとすることもありました。

なんと、父である荀緄が、まだ4歳である荀彧のところに宦官の娘を連れてきて結婚相手にさせたのです。

 

そんな縁もあって、荀彧は董卓が政治を牛耳っていた189年に孝廉(現在の選挙に近いもの)によって宮中の管理職として中央で勤めるようになりました。

しかし、すぐさま董卓がその立場を追われるようになると、荀彧は危険を察知して故郷である潁川への転職を願い出たのです。

その後、故郷にまで董卓軍の暴虐が及び、袁紹が治める冀州に逃げ込むと、兄弟である荀諶や、同郷の文官:辛評や郭図は袁紹に皆仕えました。

しかし、荀彧だけは袁紹が先行きが暗い人物だと見抜き、1人冀州を離れ曹操の下で仕官したのです。

黎明期の曹操を支える~袁紹との戦い

29歳の時から曹操に仕え始めた荀彧は、故郷を荒らしまわった董卓が自滅することを予言し、その直後に呂布が反乱を起こしたことで的中させました。

その呂布が曹操配下だった陳宮の裏切りに乗じて留守にしていた曹操の領地に攻めてきた時、荀彧はいち早く謀反を見破って夏侯惇と協力し、被害を最小限に食い止める活躍を見せています。

父の敵討ちのために徐州を攻めていた曹操が再び徐州を攻めようとした時もこれを諫め、先に呂布を討伐し地盤を固めていきました。

また、献帝が洛陽を脱出した時もこれの保護を提案し、かくして曹操は大将軍に、荀彧は尚書令に任命されたのです。

 

荀彧はこの間、数々の人物を曹操に推挙し、そのほとんどが曹操の下で活躍していました。

その中でも、曹操は荀彧に厚い信頼を寄せ、荀彧がいない時に頼るべき人物を荀彧が応えると、言われた通りその人物に相談するほど頼りにしていたそうです。

袁紹と対立した際も曹操を励ましつつ、袁紹軍内の武将や文官の特徴をつぶさに答え、開戦に結びつけました。

戦争が始まると荀彧は後方支援に徹し、袁紹軍内が荀彧の予言通り分裂していくと、ひたすら反撃の時を待つよう進言し、ついに曹操は袁紹を破ることができたのです。

魏建国への対立~最後

袁紹が亡くなった後、荀彧は戦場に出ていない立場ながらもその功績を認められ、最初は固辞していましたが、褒章を受けることになりました。

袁家の残党を平定した後、荊州の劉表攻めを尋ねられた荀彧が伝えた策に従い、曹操は荊州を支配することに成功します。

ここまで順調に進んできた荀彧の人生でしたが、赤壁の戦いで曹操が荊州から撤退した後、荀彧の運命を変える出来事がありました。

それが、曹操を魏公にしようとする文官たちの動きだったのです。

 

漢室のために曹操が旗揚げしたことを理由に、文官の中でただ1人反対の立場を取り続けた荀彧でしたが、徐々に曹操の気持ちが傾いていったのでした。

212年、孫権討伐のために曹操は荀彧に従軍を命じますが、道中の寿春で病に伏してしまい、そのまま帰らぬ人となってしまいました。

50歳で亡くなった荀彧でしたが、本当に病で亡くなったのかについてはハッキリとしておらず、自殺や他殺の線も可能性として残されています。

荀彧が亡くなった後、すぐに曹操が魏公に就任したことや、曹操の墓に荀彧が祀られていなかったことからも、晩年は曹操に疎まれていたのではないか、という仮説も立てられた人物だったのです。

荀彧の性格やあだ名についての逸話

ここまで荀彧の生涯についてお伝えしてきました。

曹操のために尽くしてきた荀彧でしたが、魏公を巡る立場で不可解な最後を遂げたと言えるでしょう。

ここからはそんな荀彧の性格やあだ名に着目して、その逸話をご紹介していきたいと思います。

王佐の才とあだ名された

荀彧のあだ名として有名なのが「王佐の才」という表現ですね。

ここでいう王佐とは、徳を持って領地を治めようとする王道を行なう君主を補佐する、という意味になります。

その名のとおり、荀彧は曹操の領地をその才覚を持って治め、曹操の覇道を支えた働きを見せました。

しかし、逆にこのあだ名通りの評が、荀彧の性格をもの語り、ひいては荀彧の運命を決めてしまったのではないかという見方もできるのです・・・。

曹操との争いを曲げなかった頑固な性格

王佐の才と言われた荀彧が、魏公への就任反対という立場を曲げなかったのは、漢の臣下であるという立場を曲げなかった頑固さにあると考えられます。

儒家の家系に生まれたこともありますが、その知謀は曹操が自らを上回ると言わしめたほど高く評価されていたにもかかわらず、考えを曲げなかったことは荀彧の性格も関係していることでしょう。

一方で、赤壁の戦いで大敗した後、曹操がより権力を欲したために、魏公就任を急いだことを諫めたかったという視点もあります。

果たしてその真相はいかに・・・今となってはわからないことですが・・・。

まとめ:超有能な文官も不可解な最後を遂げた

今回は三国志に登場する文官:荀彧についてご紹介してきました。

王佐の才と言われ、その才能を曹操の下で発揮した文官でしたが、その最後はとても不可解なものでしたね。

他者からの評価も高かっただけに、その真実が明らかになる日が来ることを祈りたいです・・・。


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