三国志に登場する軍師:郭嘉について解説していきます!

曹操軍の中でも飛びぬけた知力を持ち、数々の献策を行う見事に的中させてきたのが、この郭嘉です。

短命であったこともあって、その才覚が長く発揮されていたら、という展開も想像してしまうほど優れた軍師と言えるでしょう。

そこで今回は郭嘉の人生について、天才と言われたエピソードや人物像も交えながらご紹介していきたいと思います。

郭嘉の人生を最後の死因まで解説!

数多く存在する曹操軍の軍師の中でも、いわゆる生え抜きだけを見ても飛びぬけて軍事に関する才能に長けていたのが、今回ご紹介する郭嘉です。

後年の有力な軍師としては賈詡や司馬懿が挙げられますが、もし郭嘉が長生きしていたとしたら、この2人の運命も大きく変わっていたかもしれませんね。

何といっても素晴らしい能力を持ちながら、早逝してしまったところが、郭嘉の才能をより引き立て、魅力あふれる人物にした要因ではないでしょうか。

早速、郭嘉がどんな人生を歩んできたのか見ていくことにしましょう。

生まれ~曹操に仕官

郭嘉は170年に豫州潁川郡陽翟県で生まれたという文献が残されています。

若くしてその智謀を磨き上げた郭嘉は、自らが使えるべき君主を求めていました。

ちょうど、郭嘉が住んでいた地域を納めていたのが、当時率いていた勢力では一番大きかった袁紹だったこともあり、郭嘉は袁紹の元で働こうと思ったのです。

しかし、いざ袁紹を尋ねてみたところ、郭嘉が思い描いていた人物とは異なり、失望してしまいました。

 

あまりにも優柔不断かつ傲慢な性格と受け取った郭嘉は、自らと同じ出身地ですでに袁紹に仕えていた軍師の辛評や郭図に、袁紹に会って思った欠点をズバズバと言って去っていったのです。

時を同じくして、郭嘉が仕えることになる君主:曹操は、もともとの軍事の相談役である戯志才を亡くし、新たな相談役を求めていました。

郭嘉と同郷で、すでに曹操に仕えていた文官:荀彧は、郭嘉を曹操に推挙し、2人の会見の場を設けたのです。

曹操は郭嘉の才能を見抜き、郭嘉もまた曹操が自らが仕えるべき主君であると思い、晴れて曹操軍の軍師となったのでした。

次々と献策を的中~袁紹との戦い

曹操の軍師となった郭嘉はその智謀をいかんなく発揮し、曹操の周囲に起こる様々な動きとその結末を予測し、ことごとく的中させていきました。

当時、ほぼ無名で流浪の身であった劉備に対し、人望の厚さを備えていたことから手を下すことを避けるよう進言する一方で、将来必ず牙を向く存在になるため警戒を怠らないよう進言したそうです。

また、下邳城で籠城策をとった呂布に対し、撤退を考えていた曹操を諫め、荀攸と共に水計を用いて降伏させる働きも見せました。

郭嘉の慧眼と推察は常人のそれを超え、当時の曹操に仕えていた軍師や文官の中でも飛び抜けていたそうです。

 

袁紹との戦いが始まった際にも、自らの背後を孫策が突かないかと心配する曹操に、孫策がじきに暗殺されることを郭嘉は予言しました。

すると直後、孫策が食客に襲われ、その時の傷がもとで亡くなってしまったのです。

また、同じく背後にいた袁術への対抗策として、曹操は劉備に兵を貸し与えました。

郭嘉は劉備が兵を返すことなく、曹操に反逆してくると進言し、予想通りになったことで曹操は自らの行動を後悔したと言われています。

袁家討伐~病に倒れた最後

袁紹が亡くなった時、郭嘉は後継者を決めていないことで相続争いが起こることを予言し、その通り袁家の内紛が起こりました。

曹操は気に乗じて全滅を画策しましたが、郭嘉は漁夫の利を取るべきだと待機策を進言、またも予想通り、袁家の息子たちは勝手に争い合い疲弊していったのです。

やがて、袁家の長男である袁譚が降伏の使者を曹操に送ると、その使者として郭嘉が一役買い、これを受け入れました。

そして、袁尚を倒した後に袁譚の約束違反を見抜き、袁譚をも滅ぼす働きを見せたのです。

 

残る袁尚が烏桓族と手を組んだ時、「兵は神速を貴ぶ」と曹操に進言し、袁尚軍の想像を超える進軍速度で急襲し、戦を制することができました。

一方、劉備に背後を突かれることを恐れていた曹操には、劉表の食客となっている劉備が劉表の命で動くことはないと安心させ、またも予言通りとなったのです。

しかし、207年に病を発症した郭嘉は、38才という若さでこの世を去りました。

郭嘉が亡くなったことに対し、曹操はひどく悲しんだほか、後の赤壁の戦いで敗れた際にも「郭嘉がいなかったらこんなこと(大敗)にはならなかった」とその死を惜しんだそうです。

郭嘉が天才と言われたエピソードや人物像

ここまで郭嘉の歩んできた人生についてご紹介してきました。

恐るべき推察力と、予想を的中させる慧眼は素晴らしいものでしたね。

ここからは、そんな郭嘉が天才と言われたエピソードや、実際はどんな人物だったのかについてもご紹介していきたいと思います。

天才と言われた読みと予言

郭嘉の優れているところは、これまでもご紹介してきました天才的な読みとズバズバ当てていく予言にあります。

長生きしていたならば、諸葛亮と並ぶ活躍をしていたのではないか、とさえ思えるような知力の高さには驚きっぱなしですよね。

実は、郭嘉が亡くなる前、袁紹が治める河北ではなく、先に荊州を抑えるべきだと主張していたそうです。

当時から自分が病気で亡くなることも予言しており、疫病が流行りやすい南方の地をあえて攻めるよう進言したのは、郭嘉が曹操のことを思っていただけでなく、その後の展開を読んでいたことも考えられます。

 

他にも、弱気になる曹操を諫める術にも長けていて、根拠のある理由を説得力あふれる言い方で伝えることが多かったです。

河北で勢力を増す袁紹への対応を曹操が相談した時、郭嘉は俗に言う「十勝十敗」の進言をしました。

すなわち、曹操には10の勝因があり、袁紹には10の敗因がある、ということを、すべて根拠を含めて伝えたそうです。

ただ思いつくままに策を披露するのではなく、裏付けとなる根拠を何重にも考えて検索していたことは、郭嘉の素晴らしさが成せる業と言えますね。

実際の人物像は不良軍師だった

一方、郭嘉の人物像はというと、他人に悪態を平気でつく不良軍師だったという記録が残されています。

酒に博打、女遊びが大好きで、その素行は決して褒められたものではなく、たびたび同僚の陳羣から曹操にチクられていたそうです。

郭嘉が早く亡くなった理由が、無茶苦茶な生活を送り健康を損ねていた可能性も考えられるほどだったようですが、曹操はあえてこの欠点には目をつむっていたそうですよ。

様々な性格の人材がいる中で、その長所に着目して伸ばそうとする曹操の下だからこそ、郭嘉が存分に才能を発揮できたのかもしれませんね。

まとめ:早逝した天才軍師は三国志の歴史を変えていたかもしれなかった

今回は三国志に登場する軍師:郭嘉について解説してきました。

早逝したことが悔やまれますが、短い生涯の中で非常に太く生きた人物であると言えますね。

もし長生きしていたら、今日まで伝わっている三国志の歴史はもっと変わっていたことでしょう。