三国志に登場する医師:華佗について解説いたします!
武将や文官のエピソードが多い三国志の中でも、医師として記録が残されている数少ない人物がこの華佗です。
その非凡な才能は当時の医術の数百年先を行くほどかけ離れており、まさに神医の名に相応しい人物と言えるでしょう。
そこで今回は華佗について、その生涯や彼が残した実績をご紹介していきたいと思います。
華佗の生涯を最後の死因まで解説!
華佗おじいちゃんも来た!
分析終わってるから餌かな〜。#大三国志 #華佗 pic.twitter.com/8Uvfk5ZoeQ— ぴの(大三国志、三國志覇道) (@ixzy7OmNMVSBPKy) December 10, 2020
医師としての非凡な才能を発揮し、数々の先進的な成果を挙げたのが、今回ご紹介する華佗です。
当時の中国で彼を超える医師はいないと評されたほど、優れた腕を持ち、多くの人を救ってきました。
その中には三国志に登場する武将もおり、国を超えて医療に貢献した人物と言えるでしょう。
果たして華佗はどのような生涯を送ってきたのか、早速見ていくことにしましょう。
正史での生まれ~最後
②華佗(三国志大戦1)
もう説明不要なんじゃないかな…?
かだあき(かだっきー)の由来でもあり、何かとお世話になった御方!
(※なお漢鳴は別枠) pic.twitter.com/RmcSu0jksg— 駆逐忍者かだっきー (@KADA_AKI) October 23, 2019
華佗の生まれた年は明らかとなっていませんが、本籍は豫州沛国譙県であることが記録として残されています。
若い頃は徐州で学問に勤しみ、名士である陳珪などの推挙を受けるなどしていました。
しかし、そんな申し出を華佗は拒否し、医学の勉強を続け、人々の治療を行いつつ、新たな治療法を模索し続けます。
その姿はとても若々しいにもかかわらず、当時の人は華佗の年齢がゆうに100歳を超えているはずだと考えたそうです。
その後、華佗は頭痛持ちの曹操に召し抱えられ、彼の治療に当たり続けました。
しかし、当時の医師の社会的地位は低く、思った以上に厚遇されなかった華佗は嘘を付いて故郷に帰り、二度と曹操の下へ戻らなかったそうです。
華佗が嘘をついたことに激怒した曹操は華佗を捕え、荀彧の命乞いも退け投獄させてしまいました。
自らの命が危ういと感じた華佗は医術のすべてを記した医療書を牢番に託しましたが、結局世に出ることはなく、208年に拷問の末その生涯を終えたのです。
三国志演義での華佗
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— 花田 勝 氏 (@masarushi1059) October 24, 2018
三国志演義における華佗は基本的に正史と同じですが、各国の武将を分け隔てなく治療する名医として描かれていました。
初登場の際は周泰や孫策を治療しましたが、孫策に関しては史実通り命を救うことができず亡くなっています。
その後は、荊州の地で戦う関羽の噂を聞き、自らの意思で陣中に赴きました。
毒矢を受け腕が使えなくなった関羽の治療を申し出、関羽もあえて麻酔を使わず治療を任せ、見事にこれを治したのです。
その後、神木を斬った祟りに苦しむ曹操の呼び出しに答え、曹操の診察を開始しました。
若年より続く頭痛を含めた原因が脳内の腫瘍にあると診断した華佗は、曹操に麻酔を用いた開頭手術を提案したのです。
しかし、当時の中国では聞いたことが無い治療法であることに対し、曹操は自分の命を関羽に代わって取りに来たと思い込み、華佗を投獄してしまいました。
その後の流れは正史と同じですが、関羽を治療した年代には正史上、華佗は亡くなっていることから、「関羽伝」では治療に当たった医師の名前が華佗ではなく無名の医師となっています。
華佗が天才と言われた外科手術や功績について紹介
ここまで華佗の生涯について、正史と三国志演義の両方から見てきました。
途中の経過の差異はあるものの、基本的には当時の医学レベルをはるかに超えた知識と技術で、多くの人の命を救ったことがわかりましたね。
ここからは、当時天才とまで言われた華佗の外科手術の内容や、素晴らしい功績についてご紹介していきたいと思います。
麻酔を使った外科手術の先駆者
華佗しゃまぁぁぁぁぁ#旧大戦シリーズから1枚だけ持ってくるなら pic.twitter.com/kVbYB2Vcgq
— 劉晏@仙界の住人無双レイヤー兼君主と華佗がユクゾッ※事務所ライバー昇格! (@kemofuretoki) December 7, 2020
華佗の治療の中で一番有名なのは、麻酔を使用した外科手術ですね。
麻沸散と呼ばれる麻酔薬を自ら調合し、葡萄酒とともに服用させることで、患者は徐々に五感を失い、意識を失っていったそうです。
そして、薬の効き目がある間に、あらゆる外科手術を施し、患者が目覚めたころには手術も終わっている、といったものでした。
当然ながら、当時の医療技術では成しえない治療法であるだけでなく、東洋医学しかなかったはずの中国で西洋医学を用いた先駆者とも言えますね。
その神の手で治療を行ったエピソードとして有名なのは、三国志演義における関羽の腕の手術でしょう。
この時は関羽の意思で麻沸散を使用せず手術を行いましたが、その内容は毒矢を受けた腕を切り開き、毒にむしばまれた骨を削り、体外に取り出すというものでした。
他にも、麻沸散で眠った患者の腹部を開き、悪い臓器や腫瘍を切り取った後、洗浄して閉じるということもやっています。
また、実現することはありませんでしたが、曹操に脳神経外科さながらの手術を提案したのも、華佗自らが成せる技術を信じていたが故の言動だったと考えられますね。
寄生虫の知識や読みの深さがすごい
類まれなる外科治療の腕だけでなく、華佗は寄生虫に関する知識も豊富だったことが記録として残っています。
今より衛生環境も悪く、寄生虫によって命を落とす人も多かった当時において、華佗は症状から病気ではなく寄生虫によるものであるということまで見抜き、寄生虫を体外へ出す治療法を編み出していました。
陳登に対する治療においても、寄生虫が原因であると考え、体外へ排出する薬を処方したことが有名です。
華佗の自宅には寄生虫の標本もあるほどで、研究熱心だったことが伺えますね。
さらには、このような診察眼は単に診断だけでなく、再発の時期まで言い当てるという神がかったレベルにまで到達していました。
華佗に言い渡された時期になると、一旦華佗によって治療された病気も必ず再発し、正しい対処ができなかった人はみな命を落としていたそうです。
なお、これらの治療に当たる前、華佗は必ず患者にどんな治療を行うか、それによってどんな結果がもたらされるのかをきちんと説明していました。
今では当たり前となっている、医師による治療前の説明も、当時としては先駆的で、同意を得られた患者のみ華佗の治療を受けられたと言われています。
まとめ:スーパードクターKと言われてもおかしくない腕だった
今回は三国志に登場した医師:華佗についてご紹介してきました。
当時の医術をはるかに超えた知識と技量を持ち、その技術が後世に正しく残されていれば、その後の医療の発展は大きく変わっていたことでしょう。
まさにスーパードクターKと言われてもおかしくないほど敏腕な医師だったということですね!
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