三国志に登場する武将:徐庶(じょしょ、字は元直)について解説していきます!
軍師としての評価も高く、また武芸にも秀でていた人物として知られているのが、今回ご紹介する徐庶です。
劉備や曹操との関係がとりたてて描かれることの多い人物ですが、生まれから最後までを知る方はあまり多くないのではないでしょうか。
そこで今回は、徐庶の生まれから最後まで、有名な改名の経緯も含めご紹介していきたいと思います。
徐庶の人生を生まれから最後の死因まで解説!
公式のミニキャラの落雷の絵をみて「落雷っていったら徐庶だろ‼️」って思ったけど、この絵を思い出したのは相当なトラウマだったんだと再認識した… pic.twitter.com/qJC4iHzobm
— ぶんちゃんデス‼️ (@bunneko3000) June 26, 2020
三国志演義では劉備と諸葛亮を引き合わせるきっかけを作った人物として描かれている徐庶。
劉備に軍師の大切さを教えたことから、その後の展開が大きく動いたキーパーソンと言っても良いでしょう。
しかし、劉備の下を去った後の徐庶についてはあまり描かれていないことから、結局徐庶はどうなったのか詳しく知らない方も多いのではないでしょうか。
早速、徐庶の生まれから最後までを見ていくことにしましょう!
生まれ~石韜らと学問の道へ
手加減はできない…
真・三國無双6Emp〜/蜀/徐庶
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徐庶の生まれた年は記録になく不明ですが、出身は豫州潁川郡長社県であると言われています。
若い頃は後に有名となる知略ではなく、撃剣の使い手として武芸に秀でた人物でした。
幼い頃から義侠心にあふれており、その腕前を義のために使うことが多かったようです。
そんな徐庶が剣を捨て、学問の道へ進んだのは、皮肉にも自らの義侠心によった行動が原因でした。
義のために人の敵討ちを引き受けた徐庶でしたが、そのことが原因で役人に捕まってしまったのです。
仲間の手で救われた徐庶でしたが、この一件を契機に剣を捨てました。
その後、同郷の石韜とともに荊州に転居し、「水鏡」と名高い司馬徽の門下生となったのです。
そこで、徐庶は孟建や諸葛亮、韓嵩や向朗といった後の有名軍師や政治家と交流し、学を深めていったのでした。
劉備への仕官~新野の戦い
劉備が袁紹の下を離れ、荊州の劉表を頼り新野の地を治めるようになったころ、徐庶は劉備と会う機会を得ました。
三国志演義ではこの経緯を脚色し、浮浪者として偽名を名乗り、劉備に近づいた流浪の軍師という設定で以下のような活躍を描いています。
袁紹を下し、南方への侵攻を開始した曹操の先鋒である曹仁軍と対峙した劉備は、徐庶を軍師として抜擢。
初戦を策を用いて制した後、八門金鎖の陣を敷く曹仁軍を撃退し、曹操軍に徐庶の名を知らしめたのです。
曹操の下へ~晩年と死因
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正史では徐庶は諸葛亮の存在を劉備に知らせたのち、曹操軍にとらえられた母親の下へ向かうことを理由に劉備の下を離れました。
曹操配下となった徐庶は政治家として活躍し、最終的に右中郎将・御史中丞の位にまで上り詰めています。
後に、諸葛亮が徐庶の位を伝え聞いた時、徐庶の能力を評価していたにもかかわらず想像以下の位であったことから、魏の人材層の厚さに驚いたそうです。
没年や死因は不明ですが、一説には曹叡の時代である234年に亡くなったのではないかと言われています。
一方、三国志演義では徐庶の存在を危険視した曹操が、程昱に命じて母親の筆跡に似せた手紙を送り、劉備から徐庶を引き抜きました。
この時、去り際に徐庶が諸葛亮の存在を劉備に伝えたことで、後の歴史が大きく動くことになります。
その後、策で引き抜かれたことを知った徐庶は、義の無い徐庶の行動を叱責した母親の言葉と、さらにその母親が自害するという経緯を経て、曹操のために一切の献策を行わないことを誓いました。
赤壁の戦いで龐統が用いた連環の策も、曹操軍内で唯一見破ったにも関わらず、北方警備の必要性を理由に自らのみ戦場を離れ、自分の命を守ったと描かれています。
徐庶の改名経緯や性格
ここまで徐庶の生まれから最後までご紹介してきました。
義理にあふれた性格がゆえに、自らの人生も激動した人物でしたね。
ここからは、別名ももつ徐庶の改名経緯やその性格について詳しく見ていくことにしましょう。
単福への改名経緯
やらなきゃ駄目なんだ
真・三國無双7〜/蜀/徐庶
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もともと、徐庶は本来の名前ではなく、徐福という名前でした。
また、三国志演義では上記のように、劉備に近づいた際に単福(ぜんふく)という偽名を名乗り近づいています。
単福の「単」はもともと権勢のない家柄であり単家から来ている文字から来ているようです。
さらに、徐庶と名乗りだしたのも、実は御史中丞になってからだという記録もあるので、実際には「徐福」と名乗る時期の方が長かったと言えますね。
母親思いの義侠心あふれる性格
徐庶が曹操の下に向かった最大の理由は年老いた母親の身を案じての行動であると説明しました。
若い頃の仇討ちの行動でもわかるように、徐庶は非常に義侠心あふれる性格で、恩義を感じた人物には必ず報いることを信条にしている様子がわかります。
そんな徐庶が、正史では母親を捕えられ、三国志演義では母が亡くなる原因となった曹操の下に向かった後も、元の主君である劉備の下に戻らなかったのは、ひとえにこの性格が理由であると言えるでしょう。
現在の主君である曹操に召し抱えられた身であることや、徐庶の才能を認めたうえで引き抜いたという経緯が、徐庶の義侠心に触れ、反乱することが可能であったにもかかわらずそれを行わなかったのではないでしょうか。
まとめ:義侠心に翻弄された人生を歩んだ徐庶
今回は三国志の武将:徐庶について解説してきました。
劉備の下での軍師としての働きぶりは三国志演義での脚色が強いものでしたが、曹操の下では優秀な政治家として活躍していましたね。
義侠心がゆえに生き方を変え、主君を変えざるをえなかったとも言える人生は、ファンを引き付けるものとなることでしょう。
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