三国志に登場する武将:李典について解説していきます!

魏の武将の中でも極めて慎重で冷静な判断を下す武将と言えば、この李典が挙げられるでしょう。

最大の見せ場である合肥の戦いでの活躍は、三国志ファンであれば必ず押さえておきたいところですね。

そこで今回は、李典の生涯について、合肥の戦いで共闘した張遼や楽進との仲も含めてご紹介していきたいと思います。

李典の生涯を最後の死因まで解説!

三国志の中でも非常に慎重で、堅実な性格と言える武将が、今回ご紹介する李典です。

とても思慮深く、決して軽率な行動をとらないことから、曹操からも信頼されていたという記録が残っています。

決して派手な活躍をしたわけではありませんが、要所でその働きが光るいぶし銀のような武将と言えるでしょう。

そんな李典の生涯がどういうものだったのか、早速見ていくことにしましょう。

叔父の跡を継ぐ~袁紹との決戦

李典の生年は不明ですが、兗州山陽郡鉅野県が出身地であるとする記録が残っています。

もともと、李典の叔父である李乾が曹操に仕えていましたが、その李乾が亡くなり、さらに後を継いだ息子の李整も亡くなってしまいました。

空白となったポジションに、親族である李典が抜擢され、李整の軍をそのまま自ら率いることになったのです。

元来学問を好み、戦は好きではなかった李典ですが、そのことを見越した曹操は後に太守として李典を抜擢したのでした。

 

200年、袁紹との戦いが始まると、李典は前戦で戦うのではなく、食料運搬などの後方支援を中心に行いました。

兵站を確保できた曹操軍は持久戦に持ち込み、巨大戦力であるがゆえに兵糧の減りが早い袁紹軍を徐々に追い詰めていったのです。

袁紹が没した後、202年には息子である袁譚・袁尚の攻撃の際にも、李典は後方支援で活躍しました。

特にこの戦では機転を利かせ、兵糧の運搬が容易となる水路を固めていた袁家の軍勢を奇襲し、水路を制圧し兵站を強固なものにしたことが、李典の功績として挙げられます。

博望坡の戦い~赤壁の戦いまで

その後、袁家にかかりきりの曹操を背後から突こうとした劉表の動きを察知した曹操は、一族の夏侯惇に副将として李典を付け、防備を命じました。

夏侯惇はすぐさま軍を展開しましたが、当時劉表の食客となっていた劉備が撤退するのを見るや、すぐさま追撃の姿勢を見せたのです。

劉備の動きが怪しいと読んだ李典は夏侯惇に対し、兵法書通りであれば伏兵が待っていることを忠告しました。

それを聞き入れなかった夏侯惇は、李典の読み通り伏兵に遭い、窮地に陥ってしまったのです。

 

後方で控えていた李典はすぐさま危険を察知し、夏侯惇の救出に向かいました。

壊滅寸前の夏侯惇軍を救出した李典の働きにより、劉備は本当に退却を始め、何とか最悪の事態を免れることができたのです。

その後の李典は再び袁家討伐の軍に加わり、戦功を挙げました。

赤壁の戦いが起こる前までの荊州攻略戦では、于禁や張遼ら他の将軍とともに趙儼の指揮下で行動を行っています。

合肥の戦い~最後

赤壁の戦いで敗北した曹操が南方から手を引いた後、対孫権への守りとして張遼・楽進とともに李典を合肥の地へ派遣しました。

215年に、曹操の読み通り孫権軍が大軍を率いて合肥城を包囲したのです。

張遼らの軍は合わせて約7000人、対する孫権軍は総勢10万と、圧倒的な戦力差で極めて不利な状況に追い込まれてしまいました。

この窮地を脱するべく、普段から仲が悪かった3人は連携をすることになったのです。

 

曹操の命令で城から出て戦うことを決断した張遼に対し、自らの反論を恐れていることを指摘したうえで、私情を捨て一大事に立ち向かうことを説きました。

李典のこの言葉に後押しされた張遼は、城の守りを楽進に預け、李典とともに孫権軍を奇襲したのです。

この作戦が功を奏し、孫権軍はやむなく撤退しなければならない事態に陥ったのでした。

李典の働きは高く評価されましたが、なんとわずか36歳という若さでこの世を去ってしまった(病死が有力)のです。

李典と張遼・楽進との仲やかっこいいエピソード

ここまで李典の生涯についてお伝えしてきました。

やはり合肥の戦いでの毅然とした対応が、大戦果を挙げた一番の見どころだったのではないでしょうか。

そんな思慮深い李典についてのエピソードについて、さらに詳しくご紹介していきたいと思います。

張遼・楽進とは仲が悪かった

上述の通り、もともと李典と張遼・楽進は仲が悪かったことで知られています。

もともと戦を好まず、後方支援を得意とした慎重な性格である李典に対し、根っからの武将でひたすら前戦で戦おうとする楽進の行動はまるで正反対と言えるでしょう。

また、張遼は叔父である李乾が亡くなった原因である呂布の元配下であったこともあり、決して良い感情を抱いているとは言えない状況でした。

そんな状況下でも、窮地に私情を捨て、国のために全力を尽くそうとした姿勢は、2人の心を大きく動かし、歴史上でも数少ない、圧倒的な戦力差をひっくり返した戦を作り上げたのです。

謙虚さあふれるかっこいい人物だったエピソード

李典の謙虚さは学問好きからくるもので、常に勉強を怠らず、儒家の思想を重んじていたそうです。

かつて、李典が一族を転居させることを曹操に報告した際、曹操が冗談交じりに李典が反逆するのではないかと尋ねたことがありました。

曹操の質問に対し、李典は身の丈以上の厚遇を受けていることを話したうえで、奪った領土をより豊かにし、更なる領土拡大のために一族全員で仕えるつもりであると述べたのです。

非常にかっこいい満点の回答をした李典の切り返しに、曹操も唸り李典の将軍位を挙げたのでした。

まとめ:思慮深い謙虚な将軍だった

今回は三国志に登場する武将:李典についてご紹介してきました。

後方支援を得意とし、時には味方を鼓舞する働きも見せた良将であると言えますね。

36歳という若さで亡くなったことは悔やまれますが、その功績はとても大きかったです。