三国志に登場する武将:楽進について解説していきます!

曹操軍の中でも最も功績の大きかった将軍として、五大将軍の一角に選ばれた武将がこの楽進です。

小柄ながらも勇敢な戦いぶりを見せ、数々の戦場で著しい戦果を挙げました。

今回はそんな楽進の生涯について、有名な張遼や李典との仲も含めてご紹介していきたいと思います。

楽進の生涯を最後の死因まで解説!

三国志に登場する数々の武将の中でも、派手さは無くとも勇猛さはどの武将にも引けをとらない人物が、今回ご紹介する楽進です。

曹操が数多の戦に勝利したのは楽進の働き無くして語れないもので、曹操もその腕を高く評価していました。

その楽進がどんな生涯を送ったのか、そして最後はどうやって亡くなっていったのかをすべて知っている方はあまり多くないのではないでしょうか。

早速、楽進の生涯について見ていくことにしましょう。

記録員から武将に抜擢~強さと頭角を現す

楽進の生年は不明ですが、兗州陽平郡衛国県が出身であることは記録として残っています。

曹操が董卓に対抗するために挙兵した際、その呼びかけに応じ傘下に加わったそうです。

小柄だった楽進は当初、武将ではなく記録員として採用されていましたが、後に兵を集めるよう命令を受けた際、自らの力で1000もの兵を集めたことがありました。

その素晴らしさを見込んだ曹操が、記録員から武将に抜擢し、一軍を任せたのです。

 

軍を任された楽進は、どの戦場でも常に先陣に立ち、自ら先頭に立って常に一番乗りの戦功を挙げました。

このころ、曹操は自らの足場固めとして混沌とする中原で諸将との戦いに明け暮れていました。

楽進はその戦でも先陣に立ち、呂布や袁術、張繍や劉備との戦いを経て戦の経験も積んでいったのです。

もちろん、どの戦でも必ず戦果を挙げ、その評価はどんどん上がっていったのでした。

袁紹との決戦での活躍

そして迎えた袁紹との決戦、一番大きな戦いとなった官渡の戦いで楽進は于禁とともに袁紹の別動隊を攻撃する任務を受けます。

これを見事に成し遂げた楽進は、袁紹の別陣を30ヶ所以上と数千の敵兵を撃破し、敵将やその傘下の兵を次々と降伏させました。

さらに、戦の決め手となった烏巣の兵糧庫攻めでは、守将:淳于瓊を討ち取るという大果を挙げたのです。

楽進の働きで決定的な打撃を与えたことから、袁紹軍は撤退を余儀なくされ、袁紹の没後に曹操は本格的な侵攻に乗り込むことができました。

 

202年に袁譚・袁尚兄弟との戦いが勃発した際にも楽進は出陣し、袁尚軍の武将を討ち取る活躍を見せています。

翌年も勢いを落とさず、徐々に袁家の領土を奪っていき、204年には袁家が治めていた大都市:鄴を陥落させました。

205年には袁譚を討ち、続けて袁紹の甥にあたる高幹の反逆に立ち向かい、その戦力を削いでいったのです。

206年に袁家一族の掃討が完了すると、曹操は楽進を含め活躍した諸将の働きを朝廷に報告し、折衝将軍の位を賜ったのでした。

合肥の戦い~最後

袁紹の討伐に成功した曹操は208年に南方への侵攻を開始し、楽進も撤退する劉備軍を追撃し戦果を挙げています。

赤壁の戦い後、213年の孫権征伐戦に従軍した楽進は、戦を終えた後、張遼・李典とともに孫権への守りを任され、そのまま合肥に駐屯することになりました。

215年、曹操の読み通り孫権が大軍を率いて合肥へ攻め込む、いわゆる合肥の戦いが勃発。

楽進ら武将の兵は7000、対する孫権軍は10万と圧倒的な戦力差で、あっという間に楽進たちは包囲されてしまったのです。

 

窮地に追い込まれた楽進たちでしたが、曹操の命令で城から出撃して戦うことを選択しました。

張遼・李典の奇襲部隊の戦果を待ちつつ、楽進は守城に専念し、見事に作戦が成功したのです。

この戦功で右将軍となった楽進は、当時の魏の将軍の中では一番高い位につくことができました。

しかし、218年に楽進はこの世を去ってしまい、その跡を息子の楽綝が継いだのです。

楽進と張遼・李典との仲とかっこいいエピソード

ここまで楽進の生涯について解説してきました。

まさに戦に生き、数々の戦功を挙げた名将であることがわかりましたね。

ここからは、特にクローズアップされることの多い合肥の戦いでともに戦った張遼や李典とのエピソードなどをご紹介していきたいと思います。

張遼・李典と仲が悪かった理由

数々の記録で、楽進は合肥の戦いで連携した張遼や李典と普段は仲が悪いということが描かれています。

合肥の戦いでは李典の言葉で私情を捨て、3人協力して孫権に立ち向かったのですが、もともと仲が悪かったのはその戦いよりずっと前からなのです。

袁家一族を倒した直後、荊州の劉表への防備のために楽進や張遼が防備についた際も、守っていた地域が近かったことから互いにいがみ合っていたことが記録されているそうですよ。

では、なぜこんなに仲が悪かったのでしょうか?

 

そのはっきりとした理由は描かれていませんが、楽進や張遼、李典の性格がまるで異なり、そりが合わなかったということが考えられます。

戦場で危険を顧みず先陣を切って戦う楽進と、常に慎重に考え物事を動かそうとする李典は、すでに作戦を立てる段階で方針が異なっていそうです。

加えて、元は敵対し外様的存在だった張遼が、曹操軍として戦果を挙げていくのも楽進にとって面白くなかったことでしょう。

李典にとっても張遼は親戚を失った原因を作った呂布軍の元武将ということで、仲が良くなる要素がどう考えても見当たりませんね・・・。

身長に見合わないかっこいいエピソード

とても小柄だったと描かれる楽進ですが、身長に見合わない働きぶりを見せているのは上記の通りです。

その強さは劉備が劉璋を攻めるための口実としてついた嘘にも出てくるくらい、他国の武将にも一目置かれていたことがわかります。

また、楽進は魏の五大将軍では張遼に次ぐ存在と言われていますが、正しく戦場の記録が残っていれば楽進が筆頭になっていた可能性が高いという指摘もあるほどです。

三国志演義でも弓が得意な武将として描かれ、数々の敵将を射抜く活躍が描かれていました。

まとめ:小柄な勇将は魏の中でもかなり強かった!

今回は三国志に登場する武将:楽進についてご紹介してきました。

魏の中でも戦功を挙げた数は計り知れず、五大将軍に選ばれたのも納得の人物でしたね。

三国志関連の作品でもその雄姿が描かれることが多く、ファンの多い武将であることは変わりありません。

小柄ながらも優れた武将の活躍を、しっかりと脳裏に焼き付けておきたいものですね。