于禁の生涯を最後の死因まで解説!どんな人物なのか性格や晩年のエピソードも

三国志

三国志に登場する武将:于禁について解説していきます!

曹操軍の武将の中でも数多くの戦場に出陣し、功を挙げたのが、この于禁です。

厳格な性格であることが知られていますが、晩年の行動でその評価が下がってしまったのも特徴的な武将ですね。

そこで今回は于禁について、どんな生涯を送ってきたのか人物像も含めてご紹介していきたいと思います。

于禁の生涯を最後の死因まで解説!

数多くいる曹操軍の武将の中でも、大きな武功を挙げた将軍の1人が、今回ご紹介する于禁です。

もともと別の主君に仕えていた、いわゆる外様武将の中でも高く評価されていた人物ですね。

最後まで高名を残した・・・と言えないエピソードがあるのが経歴を語るうえで外せないポイントなのですが、一体どんなことをやったのでしょうか。

早速、于禁の生涯について見ていくことにしましょう。

鮑信配下~曹操の下で活躍

于禁の生年は不明ですが、記録では兗州泰山郡鉅平県の出身であることが明らかとなっています。

後漢末期に起こった黄巾の乱の中で、于禁と同郷の鮑信が義兵を募った時に参加をしたのが、于禁の武将としての人生の始まりと言えますね。

黄巾の乱がひととおり沈静化した後も、于禁は鮑信の配下として従い、戦っていました。

しかし、192年に鮑信が戦死するという事態が発生、于禁は鮑信と親交があった曹操の下に向かい、その配下となったのです。

 

王朗の部下として配置された于禁に対し、王朗はその能力を高く評価し、曹操との面談を経て軍司馬に任命されることになりました。

于禁は徐州の陶謙を攻めた際に大功を挙げたほか、194年からの呂布との戦いでも、戦地となった濮陽や須昌、寿張や定陶、離孤の攻略にとどまらず、張超が立てこもる雍丘も攻撃し、これらすべてを陥落させるという働きを見せています。

196年には黄巾の乱で生き延びた残党の黄邵・劉辟らを征伐し、翌197年にも袁術軍の代将軍:橋蕤の軍と対峙し、その首を刎ねる活躍を見せました。

こうして、于禁は各地で戦功を挙げ、曹操軍の中でも徐々にその能力が認められ出世していく道を歩み始めたのです。

五大将軍に数えられるほどに飛躍

曹操が宛の張繍を降伏させた後、すぐさま反逆に遭い撤退を余儀なくされる中、被害を最小限に食い止めた于禁は曹操と合流し、張繍への反撃に一役買いました。

その後も下邳で猛将:呂布を生け捕りにしたり、反乱を企てた眭固を攻め討ち取る活躍も残しています。

袁紹との最大の決戦となった官渡の戦いでは自ら先陣を希望し、劉備の反乱に乗じて攻めてきた袁紹軍を食い止め、曹操軍の窮地を救いました。

于禁は反撃とばかりに楽進とともに袁紹軍の別陣に攻め込みことごとく陥落させ、官渡に戻った後も防備に専念し、落ちかけていた曹操軍の士気を盛り返す活躍を見せています。

 

袁家討伐後、荊州の劉表に身を寄せた劉備と博望坡で対峙した際、于禁は劉備の計略のため李典に窮地を救われるというエピソードがありました。

しかし、その後も于禁の活躍は続き、張遼や楽進、張郃や徐晃と併せて魏の五大将軍とくくられるまで評価されたのです。

特に、将軍位は左将軍にまで昇進し、同じく右将軍に任命された楽進と並び、当時の魏の将軍の中では一番高い位に就いていることが記録されています。

しかし、ここまで順風満帆に見えた于禁でしたが、この後の戦いから影を落とすことになるのでした・・・。

樊城の戦いでの降伏~最後

219年に起こった樊城の戦いで、関羽に包囲された曹仁を救出するべく、援軍大将として出陣した于禁でしたが、漢水の氾濫のために大被害を受けてしまいます。

四方を水に囲まれ孤立してしまった于禁は、指揮していた3万の兵と共に関羽に降伏してしまいました。

その後、江陵の地に捕虜として送られた于禁は、荊州侵略を目論む孫権軍によって救出され、そのまま呉の賓客となったのです。

于禁が魏に戻ったのは、曹操が亡くなり、曹丕が魏皇帝となった後の221年となりましたが、数年間魏に戻ることを待ちわびていた于禁を待っていたのは、あまりにも残酷な結末だったのです。

 

やつれた顔に白髪・白髭という変わり果てた姿になった于禁は、皇帝となった曹丕に謁見しました。

曹丕は于禁を連れ曹操の墓を参拝させたのですが、そこにはみじめに降伏する自らの姿を描いた絵が掲げられていたのです。

そばには対照的に、同じく樊城の戦いで最後まで忠誠心を貫き通し、命を落とした龐徳も描かれており、自らの取った行動が主君を失望させたものだったことをまざまざと見せつけられたのでした。

大変なショックを受けた于禁は気力を失い、間もなく病に倒れ、亡くなってしまったのです。

于禁がどんな人物なのか性格や晩年のエピソードから解説

ここまで于禁の生涯について解説してきました。

大功を挙げた有能な武将でありながら、たった一度の降伏がきっかけで転落してしまったのが印象的でしたね。

ここからは、于禁が実際どんな人物だったのか、その性格や晩年のエピソードを交えてご紹介していきたいと思います。

法を重んじた厳格な性格

于禁の性格は常に法をもとに動き、どんな状況であっても厳格にそれを守るものだったそうです。

張繍の軍に奇襲され追われていた際も、もともとならず者の集まりだった青州兵が略奪を図ったことを知ると、味方であってもそれを許さず、罪を追求し罰したことがありました。

また、旧友である昌豨の反乱を鎮圧した際も、「包囲された後に降伏した者は赦さない」という法があったがために、命乞いをする昌豨を泣きながら斬ったこともあったのです。

法を重んじるあまり、曹操ら上の立場の人間からは評価されましたが、部下や民衆からはあまり好かれず、さらに晩年の自らの行動が昌豨を切った時と矛盾していることもあり、失望を招いてしまったのでしょう。

三国志演義でのエピソード

一方、三国志演義での于禁は曹操の忠実な部下として描かれ、史実と異なる点が多くみられます。

降伏後にその身を保護され、中央で出世した劉表の子:劉琮への扱いが、三国志演義では于禁が曹操の名で幼い劉琮の命を奪ったことになっていました。

また、龐徳の忠義心を強調するために于禁がその活躍を事前に妬んでいるシーンや、降伏時には関羽にみっともなく命乞いをする場面も描かれています。

一方、赤壁の戦いではそれまでにあまり経験のない水軍都督に任命されるなど、分不相応ながらも武将として評価されているようでした。

晩年の于禁が降伏する道を選んだ理由を考察

晩年の降伏が非常に悔やまれる結果となった于禁ですが、法に厳格なはずの于禁がなぜこのような行動をとったのでしょうか。

そこには、3万という大軍の命を預かる将としての責任があったのではないかと考えられます。

于禁が降伏をしたという報に曹操はひどくがっかりしたそうですが、もしその決断が3万の兵の命を救うために自らを犠牲にした、という真意があったのならば、于禁が初めて法によらない、人道的な判断をしたということになりますね。

結局、于禁の真意はわからずじまいという結果になりましたが、もし上記のような理由であり、曹操にそのことが伝わっていたとしたら、呉から戻ってきた時にも厚遇された可能性が考えられるでしょう。

まとめ:晩年の行動が評価を分ける厳格な性格の武将だった

今回は三国志に登場する武将:于禁について解説してきました。

厳格な法に基づく管理を徹底し、自らの行動にも反映させていた武将でしたね。

また、晩年の行動とそれに伴う周囲の反応が非常に悲しく、影を落としたことも印象的なものとなりました。

行動の真意はわかりませんが、元来の部下思いな性格が起こした悲劇であると信じたいですね・・・。


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